ボトル・オブ・ブリテン!
現存する英国最古のエール醸造所「シェパード・ニーム」で造られるペールエール「スピットファイア」(かんしゃく持ち)は、第2位大戦時の英国救国の戦闘機スピットファイヤにあやかって命名されています。
クセがあるようで意外にクセがない一方、ホップの苦みが後味として残る味わいは、ビール党ではない私も旨い!と感嘆させられました。
眠れる森の美男子たち
お開きの一本締め
大好評!スピットファイア
「スピットファイア」の広告は、英国人の「ウイット」というやつに溢れ、興味深くあります。
“もう2杯ビールをくれ”(世界でもっとも有名なVサインはチャーチルによるものでしょう)
“わずかにフルーティな味わい、苦みのある後味”(バトル・オブ・ブリテン緒戦のドイツ軍有利、最終的に事実上の敗北となったことを例えているのだと思われます)
日本人がなんでも野球で例えるように英国人はラグビーで例えるようです。
“フランス人はいつも最初の一押しで総崩れとなる”(これは言わずと知れた独仏戦のことで、たったで40日でフランスがドイツに降伏してしまったことを「明るく」馬鹿にしているのでしょう)
ラグビーのフランカーはスクラムから速やかに離脱するポジションですが、イタリアは枢軸国からさっさと離脱し、連合国に寝返ったことを揶揄しているのでしょう。
第2次大戦で英国はドイツに勝ったものの、それはソ連とアメリカという2大国の援護があっての辛勝といえました。「いいトライだったよ」と上から目線の反面、強がりとも採れるのが彼ら流のギャグなのでしょう。
バトル・オブ・ブリテン、ヒトラー VS チャーチル
1940年5月、ヒトラーはフランス北端のダンケルクに袋のネズミ状態にした30万人の英仏連合軍に対し、あえて攻撃の手を緩め、英国に退却する隙を作ってやります。英国との早期和平を期待し、「貸し」を作ったつもりでおりました。
しかし、”ブルドッグ”と呼ばれた英首相ウインストン・チャーチルは和平という名の降伏を拒否します。
それに対し、1940年7月10日からドイツ軍の英本土への上陸作戦(アシカ作戦)が開始されました。「バトル・オブ・ブリテン」の始まりです。
2週間で英空軍(RAF)を制圧できると豪語したゲーリングもRAFの粘り強い抵抗に手を焼いておりました。8月15日には独軍の延べ1800機を英軍が延べ1000機で迎え撃つというバトル・オブ・ブリテン最大の戦いとなりましたが、英軍は辛くもこれを死守します。
英国の空を守ったのは、戦闘機に挑む「スーパーマリン・スピットファイヤ」と爆撃機を追撃する「ホーカー・ハリケーン」の絶妙なコンビネーションでした。
メッサーシュミット乗りのガーランドは、ゲーリングから「今、必要なものは何か?」と聞かれ、「スピットファイア」と答えたという逸話が残されています。
戦いは予期しない展開となっていきます。
ヒトラーは、市街地への爆撃は報復による泥沼化を避けられなくなるとして厳禁していました。戦術的にも市街地を破壊するよりも軍事施設を叩いた方が効果が高かったこともあったからです。
しかし8月24日夜、突如としてドイツ空軍によるロンドン市街への爆撃がありました。(航法ミスで目標を見失った上での誤爆と言われていますが、真相は不明)血の気の多いチャーチルは、ベルリンに報復爆撃を行う命令を下し、8月25日、80機の爆撃機をベルリン市街に向かわせました。
ヒトラーは、その十倍以上の規模でロンドンへの報復爆撃を行うよう命じます。自らが危惧していた泥沼化が始まったのでした。
この報復合戦はドイツ軍の本来の目的(英本土上陸)を捨て去る結果となったのです。ドイツ空軍の攻撃がロンドン市街へ集中している間、英軍は爆撃を受けた軍事施設の立て直しを行う余裕ができ、消耗しきっていた英軍は息を吹き返すことができたのです。
珍しいカラー画像(それも2方向から!)
やがてドイツ軍は成果が出ないわりに消耗の多い攻撃を縮小せざるを得なくなります。10月に入ると英国上陸計画は無期延期になり、結局、計画自体も消失します。これは常勝ドイツ軍にとって初めての大敗でした。
チャーチルは「人類の歴史の中で、かくも少ない人が、かくも多数の人を守ったことはない」の有名な演説を下院議会で行い、バトル・オブ・ブリテンに参加した英空軍パイロット3,000人に対して最大の賛辞を送りました。