栃木県藤岡町にある「道の駅みかも」で毎年、内外のクラシック・モーターサイクルのミーティングが行われています。参加車両は、「道の駅みかも」から渡良瀬遊水地までをパレードを行うため、公道を実走可能な車両のみに参加資格があるというのが異色なところです。
画像は、いつものE藤氏によるご提供です。
HONDA
Type F (Red Cub)
新興メーカーであったホンダは、1946年(昭和21年)に自転車補助モーター分野に進出。1952年から製造販売したものがF型。
排気量49.9cc・最高出力1ps/3,600rpmの2ストロークエンジンは、最大の特徴として在来型補助モーターとは異なり後輪左側面に搭載され、駆動系統も全て後輪周辺で完結する構造を採用した。これによりオイル飛散による乗り手の足元汚れの問題が解決し、取り扱う業者にとっても、自転車への組み付け作業やメンテナンスの簡易化を実現した。
(Wikiより)
Dream Type E (Later model)
昭和28年に53年式ドリーム号E型として生産され、日本自動車工業界において始めて年間販売実績3万2千台以上を挙げ斬界をして羨望の眼を見張らせたのである。絶対無故障、堅牢無比、燃料消費の僅少等、愛乗者の喜びは勿論、販売業者も取引後の面倒もなく、お顧客に喜ばれるので、きそつて吾が社と販売店契約をする状況であつた。
社長の所謂「3点主義」造つて喜び、売つて喜び、買つて喜ぶ、理想通りのものが、この53年式E型ドリーム号であつたのである。
日本人の手で作られた小型内燃機でこれ程のものは嘗つてなかつた。又世界中どこでも4サイクルで、このアイデアで設計され製作されたものはなかつた。
性能は、気筒容積146cc、5.5h.p.、4サイクル、時速80粁、何よりも顧客がこの価値を知つていたのだ。
昭和27年即ち52年式の後期の製品から後車輪にリャークッションが装置され、電装等も改良された。53年式から流線感覚をより一層美しく現わすためタンク両側に銀線を数条入れて軽快味を加え、変速装置も3段式を取り入れて運転をより容易にした。
「ローマは1日にして成らず」と言われた如く、好評湧くが如き吾がE型も、苦心に苦心が重ねられ、本田社長をはじめ全従業員の血と汗の結晶であつた。
昭和29年、ED3(6E)又はEG(4E)が生産販売されるに到つて、懐しの53年型、記号3Eは製作中止になつた。
(ホンダ社史より)
Juno M85
1961年11月、ホンダは6年ぶりにスクーターの販売に再参入し、モデル名も以前と同じ「ジュノオ」を与えた。「M80型」と呼ばれるモデルはエンジンに静粛性と高性能を両立させた124ccの空冷4サイクルOHV2気筒水平対向エンジンを採用、これを前輪直後に縦置きしトレーンレイアウトとした。 シリンダーヘッドにはタペットクリアランスを油圧で自動調整する「ハイドロリック・ギャップアジャスター」装置を装備、OHVエンジンに発生しがちなタペットノイズを抑えエンジンの静粛性をアップさせている。
変速機には「HRDミッション」と呼ばれる、バダリーニ式の油圧式無段変速機を採用した。これは乗り手が手動で無段階に変速を調整でき、滑らかで駆動ロスの少ない画期的な変速機であった。
1962年1月「M80型」のエンジンを169ccに拡大して搭載した「M85型」が登場、12馬力/7,600rpm、1.34kgm/5,700rpmにて最高速度100km/h。 初期のスクーターブームが終焉する1968年まで販売された。
ジュノオは数々の新技術を投入しながら売上面で芳しくなかったことから、当時まだ創生期のホンダにとって経営的な苦境に立たされる原因を作ったモデルとされており、ホンダがこの後スクーターに再々参入するのは1980年にタクトを販売するまで待たされることになる。
(Wikiより)
BENLY CB92 Super Sports
CBシリーズの第1号車種で、1959年2月に発売されたが、当初は受注生産車とされた。
C92をベースにスーパースポーツ仕様に特化させたモデルで、エンジンも最高出力15ps/10,500rpm・最大トルク1.06kg-m/9,000rpmとより高回転高出力型へチューニングされ、フロントサスペンションはボトムリンク式を採用する。
(Wikiより)
BENLY Sports CS92
1959年にCBシリーズと同時にCS92を発売し登場したシリーズ。CBシリーズが当初スーパースポーツとして設定されたため、実用車のCシリーズとの中間を埋めるシリーズとされた。
(Wikiより)
Dream CL90
1966年デビューの初代が1970年3月にフルモデルチェンジしたもの。
CL系は町中はおろか、旧車ミーティングなんかでも珍しいですね。
Dream CL250
1970年以降のCL末期のモデルと思います・・・
YAMAHA
JT60
1971年モデル。きわめて珍しい。有名なミニトレ(GT50/80)のデビューは翌72年。
YG1D
いまいちモデル特定しかねます。YG1Dあたりかと。
XS650
1970デビューのXS1の後継者。XS650はXS1にくらべ、ファンの支持が弱い印象です。傍から見れば同じようなものなのですが・・・まあ、CB750FourでもK0とそれ以降では評価は雲泥ですから。以下の車両説明は、XS1のヤマハ自身によるものです。
1955年の創業以来、2ストロークエンジンのモデルを手がけてきたヤマハ発動機が、初めて発売した4ストロークモデル。日本では高速道路の普及期を迎え、世界的にもモーターサイクルの大型化・高速化へのニーズが高まるなかで「軽量・スリム・コンパクトな大排気量スポーツモデル」という開発テーマ、与えられた命題を、細身のダブルクレードルフレームにスリムなOHC・バーチカルツインエンジンを搭載することで解決、多くのファンを獲得し、ファンからは「ペケエス」の愛称で呼ばれた。
(ヤマハHPより)
SUZUKI
RE5
スズキ以外の国内メーカーは商品化・実用化を断念していた。その中で、RE-5は唯一市販化を達成したモデルとなった。しかし、ロータリーエンジンの排気量の換算法を行うと、当時の日本国内市販車の排気量の自主規制値である750ccを超えてしまうために日本国内市場では販売できず、輸出仕様車として日本国外でのみ販売されることとなった。
ロータリー搭載車特有の燃費の悪さにオイルショックが重なってしまい、輸出台数は低迷。結局2年間で僅かな台数(6,000台程度)が生産・輸出されただけにとどまる結果となってしまった。
(Wikiより)
搭載されるエンジンはハウジングを水冷、ローター内を油冷の2系統とした単室容積497ccのシングルロータリー。2ポートの多孔式ペリフェラルポートを採用。これら2つのポートはバタフライバルブで仕切られており、低速域では小径のプライマリーポートのみが作動、高速域では大径のセカンダリーポートが作動する仕組みになっていた。キャブレターはプライマリー側に18mm、セカンダリー側に32mmのミクニ製ソレックスタイプが装備されている。また熱対策のため、エキゾーストパイプは冷却風取り入れ口を設けた2重構造の2本出しを採用。
(Wikiより)
車体のデザインは、イタリア人デザイナー、ジウジアーロによって手掛けられた斬新なものであった。そのデザインで最も目を引くのは、ヘッドライトケースの上に横置きされた、「茶筒」と称された円筒形のメーターハウジングであろう。メーター内には速度計と回転計の他、発光ダイオードを採用したギアポジションインジケーターと水温計、各種灯火類インジケーターが並んでいた。また、このメーターハウジングには回転式で開閉するプラスチック製のカバーが付いており、メインキーをオンにすると電動で開く仕組みのものであった。ただしこのメーターは、1975年のマイナーチェンジで一般的な2連式のものに変更された。
(Wikiより)
Hopper 50
1967年デビューのホンダ・モンキーが火付け役となったレジャーバイクブームの中で、1971年、スズキが放ったバッタ。
Wolf T90
ウルフはおなじ原付2種枠の中で90cc版と125cc版が併売されます。その排気量で2スト・パラツインでありました。スズキらしいクセのあるモデルゆえか、1969年から71年までの3年間の短命で終わります。
GT380
販売初年は1972年、空冷直列3気筒では中央シリンダーの冷却が不利になるため、シリンダーヘッドに角張った空気導入ケースを設け流速を高めて冷却効果を狙った独自のラムエアシステムを採用。3気筒なのに4本出しのマフラー。
当時350ccが主流のこのクラスにおける380cc(371cc)という一見中途半端な排気量は、GT250のボア×ストローク共に54mmの2気筒エンジンに1気筒を追加して3気筒とした開発経緯に由来する。
時代の流れで4ストロークエンジンが主流になる中、GT380B7型を最後にGTシリーズは幕を閉じた。長く人気を保った車種である。
(wikiより)
GT750
スズキが作った初の大型モデル。
水冷エンジンを搭載していたため北米では「ウォーターバッファロー」(水牛)のニックネームで呼ばれた。その後のオイルショックやアメリカの環境対応化などの影響からモデルチェンジされず4ストロークモデルのGS750/GS1000へとバトンタッチされていった。
水冷738ccの2ストローク並列3気筒エンジンを搭載。当時としては珍しいエンジンであったが、同社4輪のフロンテ800で量産化済み技術であった。最高出力は67馬力。
マフラーは中央のシリンダーから2本出しとなっているため、後方から見ると4気筒に見える構造になっている。当時のカタログでは、これによって30%低回転域のトルクが向上したとなっているが、現在では、高級感をアピールするためのものであるというのが一般的な見方となっている。
初期型は、ホイールの左右側にブレーキシューを配置したツインリーディングという凝ったシステムを導入している。後のモデルチェンジにより、ダブルディスクブレーキに変更となる。
(wikiより)
Fドラムブレーキモデル
Fディスクブレーキモデル
KAWASAKI
650 W1S
原型は目黒製作所(メグロ)がBSA A7シューティングスターに範をとり製作していた1K(通称スタミナ)という車両であった。メグロがカワサキとの業務提携を経て吸収合併された時点で1Kのクランク周りの弱さ(BSAそのままの弱点であった)を改善したK2(497cc)となる。その後高速時代に対応させるため624ccに拡大し1966年に650-W1として発表された。当時としては最大排気量のオートバイであり、そのエンジンと独特の排気音がもたらす迫力により人気車種となった。
メグロ時代の設計を踏襲して右足シフト(踏み込み式)・左足ブレーキであったが、1971年に発表されたW1SA以降は現在の左足シフト・右足ブレーキに変更されている。
日本国内では人気が高く、カワサキの伝説的オートバイとしてZシリーズに次ぐほど現在でも愛好家は多い。一方、カワサキが主要マーケットとした北米地域では英車のコピーという評価の範疇を出ない。
(wikiより)
650 W1SA
350SS MACH II (S2T)
1971年に発売された、MACHシリーズの末弟で、350ccはそれまでに発売されていたH1/H2より小型化されていた。そのため、共通するのは、2ストローク120度クランク3気筒と言うエンジンスペックだけで、500ccや750ccモデルと共通する部品は使われていない。
当時の350ccクラスではトップの45馬力を発生するなど、マッハの名に恥じないモデルであった。
1973年にマイナーチェンジされ、S2Tとなる。
主な変更点は、フロントブレーキが油圧シングルディスクブレーキに変更、タンクキャップおよびシートにキーロックが装備された。エンジンの最高出力が44馬力に、最大トルクが4.0kg-mへダウンされた。S2としてはこれが最後のモデルになった。
(wikiより)
750SS MACH IV (H2)
1969年に発売された 2ストローク空冷 3気筒500cc のマッハIII (H1) はその強烈な加速性から欧米で好評を博したが、やや遅れてホンダCB750が発売されると、性能的には大差なく、価格はおよそ1.5倍であるにもかかわらず次第に人気を奪われるようになった。
全ての面でCBを上回るZ1の市販までの対抗馬として、H1エンジンのボアストロークを拡大して750ccとしたのがマッハIV (H2)である。
1972年秋にZ1が販売開始された直後に発生したオイルショックにより、燃費の悪いH2は、排出ガス / 騒音規制に対応する手立ても乏しく、S1(250 cc)/S3(400 cc)/H1(500cc)がそれぞれKH250 /400 / 500と名称変更して存続したのに対し、H2 は 1975年モデルをもって消滅となった。
(wikiより)
ハヤシレーシングのキャストホイール仕様。当時モノでしょうか?最近、復刻版が生産されているほどの人気なんだそうですね。
MEGURO
SG
メグロブランドで販売された最後のモデル(1964-1969)。250cc、18馬力の単気筒エンジンは信頼性、耐久性ともに高く、現在では現存数が最も多い。
(Wikiより)
SG with Sidecar
RIKUO
1933年当時、ハーレーダビッドソンの輸入を行っていた「日本ハーレーダビッドソンモーターサイクル」はハーレーダビッドソンの日本での現地生産を、アメリカのハーレーダビッドソン本社へ申し出た。
ハーレー本社にとってはこのオファーには旨味は少なかったが、当時のハーレー本社は世界大恐慌の煽りを受けて業績が悪化しており、新モデルへの設備更新時期でもあったことから日本法人の要請について了承することとなった。
日本ハーレーは1935年(昭和10年)には社名を「三共内燃機」に変更、日本製品としてのイメージを高める意図の公募により「陸王」という日本名が付けられた。
終戦後の混乱期にあった日本で大排気量の大型バイクを生産しても販路は薄かった。結局1949年(昭和24年)に陸王内燃機は倒産し、元航空機メーカー・昭和飛行機の資本傘下で別会社の陸王モーターサイクルが事業を継承した。
1952年(昭和27年)にはBMW単気筒バイクを参考に開発したOHV単気筒エンジン搭載のA型(グローリー)を登場させ、その後250ccのF型なども市場投入しAB,AC及びFB,FC型へと発展させているが、品質に拘りすぎた事が祟り他社との価格競争に敗退。750cc陸王もエンジンをOHVに改良した試作品の製作まではおこなったものの、生産までには至らず、1960年(昭和35年)陸王モーターサイクルは倒産した。
(wikiより)
RQ 750
テレスコピック・フォークとハンドチェンジでRQ型(1953 – 1955)だと思われます。
RT-2 750
フットチェンジとなったRTに続く、最終型RT-2(1957 – 1960)でしょう。
TOHATSU
Runpet SPORTS 50 (CA2)
トーハツオートバイは実用性では優れてはいたが、当時、需要が増加しつつあった若年層を狙ったロードスポーツ車への変化に遅れを取ったのである。大手メーカーでは若年層をターゲットにしたロードスポーツ車を発表し、売れ行きも好調であった。
当社は、この遅れを挽回すべく1960年には、斬新的なデザインの排気量50ccロードスポーツ車ランペットCAを発売、当時このクラス日本最初の本格的スポーツモデルと評価された。翌年には、このモデルをよりスポーティーにし、当時盛んであったクラブマンレースに僅かな改造で参戦できるタイプのCA2を発売、この車はクラブマンレースを総なめにし、特に各地で行われていた、当時スクランブルレースと称されていたオフロードレースでは、出場台数の80%近くをCA2が占めており、この評価と独占状態は競合他社に大きな脅威を与えた。
(トーハツ本社HPより)
Twin Arrow 125 (LA3)
並列2本マフラー。メカニックな美しさで圧倒する高性能実用車。ツインブームの目。そして正統派。
(カタログ・コピーより)
MARUSHO Lilac LS-18/2
LS-18/2と思われます・・・
1960年発売。248ccV型2気筒、13.1kW(17.8馬力)@6800rpm。挟み角60度、ボア×ストロークは54×54mm。
(wikiより)
FUJI SANGYO
Rabbit S-48
ラビットはたくさん種類があってよく分かりません。S-48だと思われます。(極初期のラビットは中島飛行機に残っていたジェラルミン板を使用していたので、このようにボディに赤錆は出なかったはず)
Rabbit S-55
ラビットはたくさん種類があってよく分かりません。S-55だと思われます。
Rabbit S601
ラビットはたくさん種類があってよく分かりません。S601だと思われます。
Rabbit S102 Scarlet
従来の「125ccエンジン+鋼板ボディ」の組み合わせとは異なり、「50ccエンジン+硬質ポリエチレンボディ」が選択される。これはスカーレットというペットネームも併せて、ターゲットユーザーに女性を意識したゆえなのでしょう。1960年のデビューからわずか1年半で生産終了という短命に終わったのは、時代を先取り過ぎたためでしょうか。
MITSUBISHI Silver Pigion C-35
1953年発売。175CC 3.5HP。
シルバーピジョンは1950年から1964年まで日本国内のスクーター市場では平均して約45%のシェアを保ち続けていたが、1961年に発売された初の量産軽四輪自動車三菱・360が好調な販売実績を記録したことから、1962年に水島製作所のオート三輪・スクーター製造を全て打ち切り四輪車への転換を開始。1964年の三菱自動車工業発足時に最終モデルのC-140型・C-240型が生産終了となりモデル廃止となった。
(wikiより)
DAIHASTU Hallo
ダイハツ工業が1974年に販売を開始した50cc三輪スクーター。
3.5psを発揮する50cc強制空冷2サイクル単気筒エンジンを搭載したグレードと、エンジン部分を定格出力1.5kwを発揮する電動モーターに換装したモデル「ハローBC」が用意されていた。
尚、三輪スクーターではあったものの、車輪の駆動方式は片輪のみに動力を伝達する1WD(エンジン式と電動式では駆動輪が左右反対)であったため、通常の2WD三輪スクーターとは違う操縦性を持っていた。
発売当時のメーカー希望小売価格は179,000円と、50ccとしては割高であった上、自転車店やオートバイ店で発売されるのが常識であった二輪車市場において自動車店でのみの販売であったため、ほとんど普及することの無いまま1975年に販売終了となった。しかし、その愛らしいスタイルと希少性から、現在でも多くの愛好家が存在している。
(wikiより)
ハローの元ネタは「BSA ARIEL 3 (1970)」で、BSAとアリエルというダブルネームは勇ましいですが、ハローと同じ3輪スクーターです。ダイハツはBSAから製造ライセンスを購入したそうですが、Wikiには記述がありません。
BSA ARIEL 3
YAMAGUCHI AUTOPET BP 50
1960年モデル。
山口自転車は、1914年創業。本社は東京都台東区に、工場は埼玉県川口市に存在した。第二次世界大戦以前は、自転車の製造を行っていたが、1953年からオートバイの製造に乗り出す。一時は現存する四大メーカーと互角の販売合戦を繰り広げたが、過当競争などのあおりを受けて1963年倒産。
(wikiより)
TOYO MOTOR
モデル詳細分かりません。
メーカー乱立、群雄割拠の時代、1949年から1958年まで愛知県刈谷市に存在したメーカーだそうです。
ここから外国車のご紹介となります。
Indian 101 Scout
1928年、600ccだったスカウトが750ccとなります。
NSU Lux
空冷2ストローク単気筒198ccのルクスは1951年から1954年までの4年間に製造されています。
いまでは2輪も4輪も生産するメーカーはBMWとスズキだけですが、NSUも1964年に2輪生産から撤退するまでは、2輪も4輪も生産していました。というか、1884年からオートバイ製造を始めた老舗かつドイツ最大の2輪メーカーでありました。
むしろ、NSUといえば、ヴァンケル(ロータリー)エンジンを世界最初に実用化し、その成果をライセンス供与したことで世界に名を馳せたことで知られています。(しかし、そのヴァンケルエンジンの技術的、商業的失敗で1969年にはフォルクスワーゲングループに吸収され、現在のAUDIの一部となっています)
MOTO GUZZI Motoleggera 65
1946年から1954年まで製造。
タンク右横のレバーはシフト用のようです。
SOLEX 5000
ソレックスといえば、ミクニがキャブレターをライセンス生産していたため日本ではメジャーなフランスのブランドです。60、70年代のチューニング3種の神器「ソレ・タコ・デュアル」の「ソレ」がそれです。キャブの他にモペッドも造っていたのは有名なような、あまり知られていないような・・・
モペッドは完全に門外漢なのですが・・・これは昭和40年代後半にダイハツが輸入販売(ライセンス生産?)していたモデルではないでしょうか?(本国では3800と称していたモデルと同じ?)とにかく?だらけです。
一連のソレックスのメカニズムはなかなか興味深く、エンジン始動方法は押しがけのみ、アクセルはパーシャルがなく、スイッチのオン(全開)とオフ(全閉)のみというもの。排気量は49ccもありながら、最大出力はわずか0.4PS。(最近の電動アシスト自転車のモーターの最大出力は0.3PS程度と聞きます)さらに駆動はFFで、エンジン位置を下げることで、エンジン下部の駆動用ローラーがタイヤ表面に接地するようになり、そこで動力を伝えます。(エンジンが上がっている状態では自転車として成立する)こんな非効率ゆえ、走りのほどは偲ばれます。
今回はイベントも終わりかけというところで到着し、ゆったり撮影ができませんでした。
来場者曰く、去年はブルタコ(何それ?)等も来ていたとのことで、また来年リベンジします。
立地的にも、アウトレットや佐野ラーメンなどにアクセスしやすくてツーリングに丁度いいくらいでした。