
ファントラックディの朝は早い・・・
朝の一杯
Mさんがコーヒードリッパーを持ってきてくれました!
紙コップには、なにやら意味ありげな数字が・・・
K見さんの「1969」だけが解読できず(生まれ年?いや、違う!)・・・ああ、ライセンスプレートでしたか!
さあ準備です
過去の遺物2ストオイルを持ち込むM国さん。
WSBKの新カテゴリーWSS300で活躍する岡谷雄太選手(ピレリユーザー)
おニューのツナギたち
その岡谷選手のツナギ。
S波さんのニューツナギ、小室旭レプリカ。もちろんオーダーです。
な、なんとM国さんもニューツナギ!!
私事ですが・・・当方とS波さん共通の4輪サーキット仲間、S水さんが参加されていましたので、パチリと。
走行開始です!
大遅刻マン
老眼マン
1番マン
ベスパマン
MAXコーヒーマン
ランチ
お食事中、失礼いたします・・・鹿のフン
メシを食べたら、午後一のイベントは集合写真撮影です。
アエラ30周年
パドック散策
プロ根性を見た!
家に着くまでが走行会です
いつの間にやら、Agip が Eni に代わっています・・・
Eni って知っていますか?—————————————————————————– 初めに Agip ありきEni を語る前に Agip について語らなけれななりません。 Agip のオイルは入れたことは一度もないのに、カウルに Agip のステッカーを貼っている DUCATI 乗りは多いでしょう。 4輪では Ferrari をサポートしており、モータースポーツ色の強いブランドです。 そして、その実態は・・・石油元売り会社で、ヨーロッパ中に展開するガソリンスタンドでその名は知られています。(日本人はオイル屋と思っている人は多いのではないでしょうか) Agip の誕生ムッソリーニ独裁政権下の1926年、戦略的重要資源である石油を得るために、探鉱活動を目的とした国策会社「イタリア総合石油公団(Azienda Generale Italiana Petroli = Agip)」が設立されます。 遅ればせながら日本でも、太平洋戦争突入直前の1941(昭和16)年に、石油資源確保のための国策会社「帝国石油」が設立されています。 エンリコ・マッティの登場ムッソリーニ失脚後の新政府は、独裁政権色の強い Agip の解散を決定します。反ファシズムのパルチザンのリーダーとして名を挙げた「エンリコ・マッティ」が清算のための管財人として Agip に送り込まれます。 ところがマッティは、むしろ Agip の活動を推進し、解散に抵抗の姿勢を示し続けたのでした。 マッティは、 Agip はイタリアの戦後復興に必要な組織と看破し、ファッショが出自という問題には目をつむることにしたのでしょう・・・あるいは、探鉱という世界を跨ぐ冒険、多額の金を注ぎ込む大バクチは、戦いの中を生き抜いてきた人間とって天職と思えたからかもしれません・・・ Agip から Eni へ1953年、エンリコ・マッティ主導で Agip、Anic、Snam といった石油系公社を統合する形で、「炭化水素公社(Ente Nazionale Idrocarburi = Eni)」が設立されると、Agip は Eni の子会社として存続されることが決まります。それまでの奮闘から、国内外のエネルギー界で知られる名前となっていたエンリコ・マッティは Eni の初代総裁の座に収まったのでした。 セブンシスターズ第2次大戦後の世界では、中東の石油利権を抑えた「石油メジャー」7社だけで、世界の石油市場を牛耳っていました。 エンリコ・マッティは、彼らを「セブンシスターズ(7人の魔女)」と決めつけ、戦いを挑みました・・・実のところ、当初は彼らと協調路線を歩み、彼らが仕切るカルテルへの加入をもくろんでいたのですが・・・ 石油メジャーへの反逆中東において民族主義が高まる中、1951年、イランのモサッデク政権は、英国の植民地会社「アングロ・イラニアン石油」を接収し、「イラン国営石油会社」に改組します。 これに対し、英国はペルシャ湾に艦隊を出動させ、石油メジャーはイラン産原油を国際市場から締め出し、全面対決の姿勢を示すのですが、マッティはそのボイコットに協力しました。(この時、日本の「出光興産」は、イラン政府の市価の半額で売るとの提案を受け、秘密裏にタンカー(日章丸2世)をイランに派遣し、イラン産原油を購入しています) 左傾化を懸念されたモサッデク政権は、CIAの謀略で崩壊させられる(1953年)のですが、その後の世界で、石油メジャーは、(連合国だった)フランスやアメリカの独立系石油会社をカルテルに加入させるも、(枢軸国だった)イタリアは外したのです。パルチザンの闘士で激昂型のマッティはそれに憤怒し、その後の彼の、石油メジャーと対決する、という路線が決定づけられました。 マッティ・フォーミュラマッティは、モサッデク排斥後にイラン政権を握った「パーレビ(パフラヴィー)国王」に接近し、1957年、イラン国営石油会社との共同油田開発まで漕ぎ着けます。 そこでマッティは、それまでの利益配分基準が50:50だったのに対し、75:25という産油国を優遇した基準を提案したのです。石油メジャーは、その基準をこれまでの秩序を乱すものとして非難しますが、マッティは基準を変えることなく契約を強行。 その後その新基準は、「マッティ・フォーミュラ」として広く通用するようになります。石油メジャーの協定という大きな壁に風穴を開けたのです。 上でパーレビ国王の名前が出たので、ここでクルマ、オートバイに関係する話題を少々・・・ パーレビ国王のカーコレクションイラン最後の皇帝、モハンマド・レザー・パーレビは有名なカーマニアで、膨大なカーコレクションを有していました。特にイタリアン・スーパーカーが好きで、マッティとの関係はスーパーカーが取り持っていたのかもしれません。 パーレビ国王とエンツォ・フェラーリ(1957年)。 マセラティ5000GT(1959年)。3500GTのシャーシに、4.5L・V8のレーシングエンジンを5.0Lまで排気量を上げて積む、わずか34台だけが作られたスペシャルモデル。(うちパーレビ国王と同じトゥーリング製ボディは3台) ミウラを好み、赤、白、ブルーメタ、バーガンディの4台を所有。バーガンディはメーカー謹製の稀少なイオタ(SVJ)仕様(1972年)。 このSVJはオークションに放出され、一時期、ニコラス・ケイジが所有していました。 国王の息子が14歳で免許を取ったときに叔母さんからプレゼントされたというカウンタック(1974年)。 オートバイに乗った画像も多数残されています。 1979年、パーレビ国王はホメイニ師によるイラン革命により失脚、亡命するのですが、テヘランの宮殿に置き去られた彼のコレクションの一部は売却され、一部はイラン国立自動車博物館で展示公開されています。 ソビエト・コネクションさらにイタリア国内市場においても石油メジャーへの対抗手段を講じます。1960年、マッティはソ連のフルシチョフと交渉し、ソ連の安い石油の買い入れに成功します。 石油メジャーはソ連の安い石油は市場を乱すものとして購入を制限する協定を結んでいましたが、マッティは当然それを無視したのです。安いソ連産石油のおかけで、Eniはシェルやエッソと並ぶ国内市場シェアを獲得しました。 さらにイタリアの石油パイプラインをソ連の石油パイプラインと接続することも考えていました。西側諸国は、ソ連の西ヨーロッパ進出に安全保障上の警戒感を強く抱いており、その矢先にマッティの身に事件が起きたのです。 エンリコ・マッティの早すぎる死1962年10月、エンリコ・マッティは搭乗中のプライベートジェット爆発炎上で命を落とします。享年56歳。Eni 帝国の君主としての絶頂期における無念の死でした。 この事件は、石油利権絡みのCIAの謀略とか、マフィアとの関係が悪化し暗殺されたとか言われ、1972年に「黒い砂漠(IL CASO MATTEI)」として映画化されています。 Agip ブランドの消滅2010年、当時の Eni 社長「パオロ・スカローニ」は、世界の石油メジャー同様、会社名の Eni とスタンド名の Agip は同じであるべきとし、ブランドの Eni への統一を開始します。 われわれがモータースポーツを通じて慣れ親しんできた Agip ブランドは、これをもって消滅したのです。(幸いにも火を吹く6本足の犬のシンボルマークは存続されました) そして elf—————————————————————————– 2輪においては、一連の革新的な elf プロジェクトは未だ鮮明に記憶に残されています。 elf も Agip 同様、石油元売りであり、そのガソリンスタンド・チェーンで広く知られています。 elf の歴史elf においては、Agip のエンリコ・マッティのような個性派リーダーが八面六臂の活躍することはなく、吸収、合併、統合を繰り返しながら、かつてのメジャー以上の存在、スーパーメジャーとなっていく過程がその歴史となります。 elf の母体となった3社1940年6月から1944年8月まで、フランスはナチス占領下に置かれていました。 そのような中でも、油田開発は、戦前、戦中、戦後と進められ、3つの国営石油会社が設立されています。
elf の誕生1965年、フランス政府は RAP と BRP を統合し、SNPA を子会社とする国営の「石油事業研究所」(Entreprise de Recherches et d’Activités Pétrolières = ERAP)を設立します。 1967年、ERAPの製品ブランド名を Essence Lubricants France = elf で統一します。 1976年、ERAP は「アンタル石油」(1927年設立)と合併し、「エルフ・アキテーヌ国営会社」(Société Nationale Elf Aquitaine = SNEA)となり、まもなく「エルフ・アキテーヌ」と改名します。 TOTAL による elf の買収1996年、段階的に国家資本を縮小させていたエルフ・アキテーヌは、ついに完全民営化を果たします。 1999年、「トタル」(1924年設立)が「ペトロ・フィナ」(1920年設立)を買収して「トタル・フィナ」となります。 2000年、トタル・フィナがエルフ・アキテーヌを買収し、「トタル・フィナ・エルフ」となります。 2003年、社名は「トタル」に戻されます。ここでエルフはトタルの1ブランドの位置づけとなり、ガソリンスタンドやオイルのブランドとしてエルフの名称は存続していくことになります。 2021年、社名を「トタルエナジーズ」に変更。 スーパーメジャー1990年代以降の石油メジャー同士の吸収、合併、統合から生まれた「ロイヤルダッチシェル」、「エクソンモービル」、「BP」、「トタルエナジーズ」、「シェブロン」、「コノコフィリップス」の6社を、かつての国際石油資本(メジャー)を超える国際巨大石油資本(スーパーメジャー)といいます。 トタル・フィナによるエルフ買収の裏にあるものエルフ・アキテーヌの民営化後、トタルフィナに買収された経緯の背後には、世界的な趨勢としての、官営企業の民営化、合併による強大化、といった経営戦略を踏襲したということ以上に、「エルフという手に負えなくなった飼い犬を殺処分したい」という意向がフランス政界に強くあった、というのが大方の見方となっています。 国営企業だったエルフは、探鉱という世界規模での開拓活動で培った人脈、その常套手段である賄賂戦略の実績が評価され、フランス政府の利権確保の先兵として、長らく合法・非合法の裏工作を担っていたのです。 1990年代になると、その活動は歯止めの利かない領域へとエスカレートしていきました。エルフが、台湾最大の汚職事件といわれる「台湾フリゲート事件」(後述)や、戦後ドイツ最大の政治スキャンダルといわれる「コール首相不正献金疑惑」に暗躍していたことが、広く世に知れ渡ってしまうと、まともな国営企業としての体裁を保つことは難しくなってしまったのです。 エルフ・スキャンダル—————————————————————————– アルフレッド・シルヴァンエルフ・アキテーヌ社では、同社ナンバー2の「アルフレッド・シルヴァン」(Alfred Sirven)が、エルフのお家芸である賄賂戦略を取り仕切っていました。 彼はミッテラン政権時の政財界人に巨額の賄賂と架空給与をばらまいていましたが、それにあやかった者は、大統領の「フランソワ・ミッテラン」(François Mitterrand)、内務大臣の「シャルル・パスクワ」(Charles Pasqua)を筆頭に160人以上にも渡りました。 エルメス製!(笑) シルヴァンの驚くべき過去1927(昭和2)年生まれのシルヴァンは、1944(昭和19)年の17歳時に学業を中断して、対独レジスタンスに参加します。 1951(昭和26)年には、国連軍フランス兵として朝鮮戦争に従軍しますが、1952(昭和27)年2月、負傷療養目的で連合軍占領下の日本滞在中に、富士銀行千住支店でピストル強盗を行い、逮捕・収監されるという驚くべき過去を持つ男でした。 富士銀行千住支店ギャング事件1952(昭和27)年2月18日午後3時15分頃、米陸軍の制服を着た白人2名と日本人1名が、閉店直後の富士銀行千住支店(東京都足立区)にピストルを持って押し入ります。日本人は二世を装い、外国人訛りの日本語を使って行員に指示、現金225万円を奪うと、銀行の入り口付近に待たせていたジープで逃走、途中で1948年型ハドソン・セダンに乗り換え、さらに逃走を図ったというものです。 白人2人というのが、国連軍フランス兵のシルヴァン曹長とパリエル一等兵で(パリエルは脱走兵でした)、他に日本人4名(うち1名はパリエルの愛人女性)が犯行グループにいました。 事件後の2月下旬、パリエルとその日本人の愛人が、東京都港区三田の不動産会社に部屋を借りるため訪れたことがきっかけに、まずその日本人女性が逮捕されます。その後、パリエルが不動産会社に預けた現金入りトランクを引き取りに来た際、、CID(米陸軍犯罪捜査司令部)と銃撃戦を繰り広げた後、品川駅で姿をくらましたのでした。 3月2日、シルヴァンが北区のホテルに宿泊中にホテル職員に通報され、CIDに逮捕されるも逃走。3月4日、小松川検問所(東京都江戸川区)で、タクシーに乗っているところを発見され再逮捕されます。 最終的に事件に関係した6人全員が捕まり、シルヴァンは軍事法廷で1年の懲役刑を受け入獄、1954年にフランスに強制送還されています。 ビジネスマンに転身その後どういう経緯があったのか、学歴があるわけでもなく、銀行強盗の前科すらあるシルヴァンは、トップ・ビジネスマンへの転身に成功します。Agip のマッティ同様、魑魅魍魎が棲みつく石油業界、実戦経験のある兵士という経験が、高く買われる時代であったのでしょう。 1959年、32歳でモービル石油に入社。モービルに15年間勤めた後、エイボン、ベンディックス、ムリネックスを経て、1982年、モービル時代の知己でエルフ・アキテーヌ社長となっていた「ロイック・ルフロック=プリジャン」(Loïk Le Floch-Prigent)の誘いを受け、55歳でエルフ・アキテーヌに入社しています。(ルフロックは化学者出身で、シルヴァンより16歳若く、その時39歳でした) 逃亡の末、逮捕シルヴァン自身は、30億フラン(5億ドル)の横領のうち、10億フラン(1億7千万ドル)を自らの懐に入れたとみられており、彼は4年間の逃亡生活の末、2001年2月2日、フィリピンで逮捕されるのですが、74歳のシルヴァンは、最後の潜伏地マニラにて、家政婦として雇ったフィリピン人女性を愛人にして豪華な生活を満喫していました。 裁判開始2001年2月7日、裁判のカギを握るシルヴァンがフィリピンよりフランスに移送され、初めて裁判に現れました。シルヴァンの口から自分の名前が出るのではないかと戦々恐々とした者は多数いたことでしょう。 2003年11月12日、シルヴァンには懲役5年、罰金100万ユーロの判決が下され、パリ14区のサンテ刑務所に収監されました。 2004年5月、シルヴァンは健康上の理由で仮釈放され、愛人のフィリピン人女性と結婚するも、2005年2月12日、心臓発作で死亡しています。 デュマ外相と愛人クリスチーヌこの大スキャンダルで連座させられた者多数、その中でも異色の2人を紹介いたします。 当時の外相「ローラン・デュマ」(Roland Dumas)と、その愛人「クリスチーヌ・ドヴィエ=ジョンクール」(Christine Deviers-Joncour)です。 1990年、クリスチーヌは、デュマの口利きでエルフに入社すると、シルヴァンの下で、裏工作の連絡員を務めていました。 クリスチーヌが購入した、デュマとの逢引の場、パリ7区の高級アパート(1,750万フラン)は、実質的にはデュマへのシルヴァンからの贈り物でした。また2人はエルフのコーポレートカードで高価な装飾品や美術品を買い漁っていました。 クリスチーヌは、デュマ外相に台湾へのフリゲート禁輸の解除を働きかけ(後述)、その報酬に4,500万フランをシルヴァンから受けたという疑惑が明らかになると、捜査の手はデュマ外相にも伸びたのです。デュマ外相は収賄の事実を全面的に否定するも、スイスの銀行から彼の口座に1,000万フランが送金されていたことが判明すると、いよいよ彼の尻にも火が付きます。 しかし、「疑わしきは罰せず」という推定無罪の原則に助けられ、デュマは無罪を勝ち取ります。一方、クリスチーヌは、懲役1年6ケ月・執行猶予1年、罰金100万ユーロの判決となりました。 後に彼女は作家に転身し、1998年、デュマとの関係を一部始終を綴った自叙伝「共和国の娼婦」(La putain de la République)を出版し、再び世間を騒がせました。 ちなみに、懲役5年・罰金37万5千ユーロの刑に処された当時のエルフCEO ルフロックも、2002年に「エルフ事件・国家の仕事」(Elf Affaire, Affaire d’Etat)を出版しています。 どちらも日本語翻訳版はございません! 台湾フリゲート事件多彩さを誇るエルフの裏工作の中でも、最悪と言えるのが、「台湾フリゲート事件」です。台湾史上最悪の汚職事件の名を欲しいままにし、不審死した関係者が仏・台併せて14人以上という非道な話を、ここにご紹介します。 1988年、台湾海軍はフリゲート(小型高速軍艦)の導入を計画するのですが、中国との関係を優先するアメリカやドイツからは購入を望むべくもなく、韓国との契約がほとんど決まっていた矢先、フランスが売り込みを掛けてきました。 1990年1月3日、韓国との契約を強引に変更する形で、仏トムソン-CSF社のラファイエット級フリゲート6隻の購入契約が結ばれるに至りました。 が、予想された通り、中国から強い圧力がフランスに掛かったため、もともと親中のミッテラン大統領は契約を破棄するよう指示しました。 巨利を産む大型契約をあきらめ切れなかったトムソン-CSF社は、対仏、対台、対中、3つの裏工作ラインを動かすことを決め、そのひとつとして、エルフ(シルヴァン)のネットワークを動員します。 シルヴァンは、デュマ外相への連絡員として、その愛人クリスチーヌに白羽の矢を立て、台湾側への工作には台湾人ビジネスマン「エドモンド関」(Edmond Kwan)を抜擢しました。 8,000万フラン(1,300万ドル)の成功報酬を約束されたクリスチーヌの裏工作は、直接的な成功にはつながりませんでした。しかし、最終的に1991年8月下旬に正式契約が結ばれるに至ると、シルヴァンはクリスチーヌに4,500万フラン(750万ドル)の報酬を支払っています。 一方、シルヴァンはトムソン-CSF社に契約通り1億ドルの成果報酬を要求しましたが、トムソン-CSF社はシルヴァンの成果に疑問を抱き、支払いを拒否したのですが、シルヴァンはスイスの法廷に提訴し勝訴したという経緯があります。 壮大な売国行為この契約は、台湾においては、巨額汚職事件であるだけでなく、壮大な売国行為でもありました。 ●当初6隻で13億ドルだった契約金額は、最終契約では倍額の26億ドルまで水増しされていました。 ●フランスは台湾に渡す予定であったラファイエット級フリゲートの設計資料を無償で中国に引き渡しています。 ●台湾は、フランスから海底探索艇を購入する名目で、艦上装備が一切無い艦体を6隻持ち帰りました。 ●追加予算17億ドルを使って代替の艦上装備を搭載したものの、オリジナル艦の最大の特徴であったステルス性は著しく低下してしまいました。 ●本来搭載されるはずだった艦上装備の一切は無償で中国に引き渡されました(中国の「ハルビン艦」は、無償で手に入れた設計資料と艦上装備を用いて建造されたものです!) リベートの分配水増しされた13億ドル分配の内訳は以下の通り。(13億ドルは当然、台湾の税金です!)
上で書いたように、台湾海軍は艦上装備のために17億ドルの追加予算を組んだのですが、艦体と艦上装備を合わせても13億ドルだったことを鑑みれば、ここでも大幅な水増しがなされたことは明らかでした。恐ろしいことに、水増しを指摘した購買担当大佐は邪魔者として殺害され、台北沖に浮かんでしまいました。 フリゲート導入後まもなく、(アメリカからF-16の販売を拒否され、代わりに)フランスからミラージュ2000-5戦闘機とその装備としてMICA空対空ミサイルを購入したのですが、その時も、当初120機導入の予定が、実際は60機となっています。またしても倍額に水増しされたのでしょうか? 相次ぐ不審死1993年から1994年にかけてを中心に、フランスと台湾両国で14人以上の関係者が不審死を遂げています。高齢者も多く、すべてが謀殺というわけでもないのでしょうが、一連の死を「フリゲートの呪い」と呼び、戒められています。 1.尹清楓(Yin Ching-feng) 2.ジャン=クラウド・アルベサルド(Jean-Claude Albessard) 3.ジャック・モリソン(Jacques Morisson) 4.汪傳浦(Andrew Wang Chuan-pu) 5.ジャン=リュック・ラガルデール(Jean-Luc Lagardere) 6.イヴ・デ・ガルジン(Yves de Galzin) 7.ジェームズ郭(James kuo) 8.ティエリー・イボット(Thierry Imbot) 9.Cdt・ロアレ(Cdt Rouaret) 10.アンドレ・リゴー(André Rigault) 11.G・モンク(G Monk) 12.ピエール・アイグレイン(Pierre Aigrain) 13.ピエール・ベレゴヴォワ(Pierre Bérégovoy) 14.フランソワ・ド・グロスーヴル(François de Grossouvre) |