2015/5/14-17 第54回 静岡ホビーショー

模型の首都、静岡で毎年行われる関連76社+2団体による展示会。イベントあるところにE藤あり、のE藤氏によるレポートです。

タミヤ

1/12 ホンダ RS1000
81年の鈴鹿8耐にホンダ・フランスから参戦した2台。
模型化されて久しいモデルですが、長らくの絶版期間を経て、今回再販+完成品販売と相成り、あらためてフィーチャーされました。

デビッド・アルダナ/マイク・ボールドウィン組が駆って優勝したハーフカウルの#1号車は、良く知られた存在なのですが、ドミニク・サロン/ジャン・クラウド・ジョベール組のフルカウルの#2号車は、180周でリタイヤしたためか、全く知られておりません。キットは#1と#2のコンパチだったのですが、2号車を作った人を見たことありません。

オイルラインのステンメッシュホースを表現するデティールアップパーツも出される模様。

1/12 ドゥカティ 1199パニガーレS
ドカは916以来、久々のモデル化。新作はモノコックフレームが模型映えするパニガーレ。

1/6と1/12でベベル750SSを出すべきですね!次点で750F1レーサー!!

1/12 ヤマハ YZR500(OW70)
WGPでケニーとフレディーが死闘を繰り広げた1983年は、全日本500ccクラスでは、前年に500cc初参戦で総合4位となりワークス契約を取り付けた平忠彦が、当然のごとく500ccチャンプを獲得した年でした。以後、全日本3連覇の平時代を築いていきます。テールカウル横の”KADOKAWA NOVELS”のステッカーが眩しい。(「汚れた英雄(1982年12月公開)」で草刈正雄のスタントマンに抜擢された平選手はまだプライベータでありました)

1/12 ホンダ MVX250F
待望の再販なのでしょうか?

1/12 カワサキ ZZR1400
2007年に北米限定で発売された特別カラーバージョンなんだそうです。

1/24 トヨダ AA型
トヨタ初の量産乗用車。1936年から1943年までの8年間に1,404台が生産されたとのことです。意外にも車両は現存していないようで、トヨタ博物館にある車両も当時の図面から起こされたレプリカです。1/24のカーモデル枠で模型化。

AA型は、当時のアメ車の影響を「色濃く」(笑)受けていたというのは周知の事実。

1935 Ford / 1935 Chevrolet

なんて揶揄されることは多いのですが、なかなかどうして、グリル周りの流線処理なんかは自分のデザインになっているではないですか!

1/35 トヨタ AB型フェートン
AA型のオープンモデルがAB型(フェートンは幌つき馬車の意)。1936年から1938年までの3年間に生産された353台の大半は陸軍に納められたとのこと。それゆえ、こちらは1/35のミリタリーモデルとして模型化。

価格はクローズドモデルのAA型より、なぜか50円安い3,300円だったそうです。(オープンモデルの方が高価であることが普通)当時の貨幣価値は現在の1/3600というから、およそ1,200万円に相当します。あ、紛らわしかったですね。上のは1/1の当時価格です。なお、1/24 AA型は3,400円、1/35 AB型2,400円となっています。(共に税抜)

1/24 ホンダ S600
従来からあったS800のバリエーション展開。

1/12 ロータス 49B
前年のブリティッシュ・グリーンのナショナルカラーを脱ぎ捨て、F1界で初めてスポンサーカラー(ゴールドリーフ・タバコ)を纏ったクルマ。黒のヘルメットは1968年F1チャンプ、グラハム・ヒル。

1/12 ホンダ RA273
1967年に発売されたタミヤ初のF1モデル。出来あがったばかりの1966年モデルを海外に送る直前に取材し模型化。

白いヘルメットにブルーのストライプのドライバーはジョン・サーティス。(サーティスは67年モデルに乗ったので厳密には時代があっていません)ボディサイドのHONDAロゴ下の赤枠には、本来、サーティスの名前が入るのですが、今は権利関係で使えないのかなあ?

夏休みの宿題ではタミヤの工作セットに世話になったなあ・・・

有史以来、女性を寄せ付けなかった模型界の福音、スイーツ女子を呼び寄せたというデコレーションシリーズ。

トミーテック

手堅い支持層があるという西部警察シリーズ。完成品の1/6カタナは鳩村刑事(舘ひろし)Ver.。128,000円!!タミヤのキットを作って黒く塗ればいいじゃない!?

アオシマ

1/45 DD51 北斗星
全長40cmでフルデティールという超ド級モデル。これで13,800円なんだから、DD51に何の興味がなくても、ちょっと欲しくなるほど。

ツインターボ+インタークーラー付きV12ディーゼルエンジン(61,000cc・1,100馬力)も補器類を含め完全再現。素晴らしい。このエンジンが1両に前と後ろに1基づつ計2基搭載されているとのこと。

1/12の完成車シリーズ。
オモチャ然としていて、デティール重視派には寂しい出来ですが、アオシマがこんなに力を入れているということは、それなりに売れているんでしょうね。

H2Rはタミヤがキットを出してくれすでしょう・・・きっと(笑)

エブロ

日産推しですね。

1/43 NISSAN GT-R LM NISMO 2015

1/43 NISSAN IDx nismo
東京モーターショーのショーモデルまで模型化。

日下エンジニアリング

1/6 RB26DETT
RB26DETTの塗済み完成モデル。レジン・キャスト製。ツインターボのインレットパイプからタービン、アウトレットパイプのディテールとタービン内部のインペラーの細部も再現。ウォールナット製台座、アクリルケース、専用エンジンスペックプレート付属。3万円。

ウッディージョー

電動水車小屋
参考出品なんだそうです。

1/75 平等院 鳳凰堂
全幅の73.2cmの木製ビッグモデル。45,000円。

1/75 投入堂
国宝とのことですが、知らない建築物です。鳥取県三徳山三佛寺境内、三徳山の中腹の断崖絶壁に建つ掛造の建造物なんだそうです。18,000円。

1/75 興福寺 五重塔
興福寺の・・・だと思います。オリジナルは710年に建てられ、現存する塔は焼失後、1426年に再建されたもの。58,000円

1/5 江戸神輿
なんだか木製モデルばかり紹介していますが・・・たしかに模型としての見映えがいいですね。固定ファンがいるのもうなづけます。60,000円。

1/75 サー・ウィンストン・チャーチル
1966年進水と結構新しい練習帆船とのこと。「完全新設計版として復活!!」と力が入っています。30,000円。

第26回モデラーズクラブ合同作品展

以下は市井のモデラーたちが腕を奮った作品となります。

SMC仕様のNCRレーサー、素晴らしい出来。マイク・ヘイルウッドの立像も素晴らしい。

定番の#1のダグ・ポーレン車ではなく、シブく#9のジャンカルロ・ファラッパ車を選択。
エキパイはチタンじゃないから、こんな感じでは焼きは入らないんだよね~というのはヤボですか!

(タミヤ製888SBKの欠点は、オーリンズフォークのボトムケースとブレンボのキャリパーが致命的に似ていないこと・・・それ以上に、888らしく見せるエッセンスの何かが足りていない・・・実車を見ないで写真だけで作った感じというか。たしかに888SBK以外には見えない出来ではあるけれど)

このモンスターはパニガーレからスクラッチしたものと思われます。

バリバリ伝説

NS500、ゼッケン7、ロスマンズは1985年のワイン・ガードナー車。(しかし、Wayenってウェインってカタカナ表記するのが普通なのに、なぜワインとなったのだろう?オーストラリア訛りを反映したとか?)

1984年のNSR500、フレディー車。

1984年のシリーズ第1戦、南アフリカGP予選でコムスターホイールのカーボンスポークが破損してクラッシュ、打ち捨てられたNSR。有名なシーンの再現です。

ハセガワ製の1989年のNSR500。エディ・ローソンがチャンプを獲った年です。右奥のYZR500は同じくハセガワ製、1988年のエディのチャンプ車。

その89NSR500に社外品のデカールを貼ったもの。#9は、HBチームのピエール・フランチェスコ・キリ車。

このへんのモリワキ製レーサーやZ1000S1は、Z1市販車をベースにした作ったものでしょうか。

模型として見るだけなら無害で微笑ましい。

これは大きい、チュンダップ KS750 サイドカー。フィギュア用の1/6でしょうか。

1/12のランチア・ストラトス。昔、日東で出ていたのを童友社が再販しているものですね。もう40年前のキットとなりますが、ビッグスケールの新作が収支的な問題でなかなか出てこない昨今、貴重な存在です。

タミヤ1/12のポルシェ935のカットモデル。

プロター・・・ではなく、モデルファクトリーヒロの1/12、126C2。#27はいわずとしれたビルヌーブ車。彼の命を奪ったマシンでもあります。(1982年のベルギーGP予選でクラッシュしたビルヌーブは、バラバラとなった126C2から車外に放り出され、絶命に至ります。この事故は、以前のレースでチームオーダーを裏切ったことから確執のあったチームメイト、ディディエ・ピローニの予選タイムを、ビルヌーブが是が非でも破ろうと無理をした結果だったのだから、やりきれない)

タミヤ 1/12 でしょうか。「たいれる」表記から1976年の最終戦、F1GP in FISCO仕様でしょう。

相当のマニアの作。80年代初頭にOS技研から、わずか9基のみが世に出た「TC24-B1」エンジンを1/24でスクラッチし、GT-Rに載せています。

TC24-B1は、L28のSOHC12バルブヘッドをツインカム24バルブヘッドに換装したもので、325ps@7,400rpmの最大出力を発揮しました。最近、現代の技術で改良された「TC24-B1Z」が復刻されています。排気量は3.2Lまで拡大され、最高出力420ps@9,000rpmを絞り出しています。

これもマニア中のマニアの作とみました。1983年の第31回サファリラリーで総合9位となった#29 ダンカン/ベネット組のサニトラです。(クラス9位では無くて、総合9位ですよ!!)この手のピックアップ・トラックは南アフリカ共和国の現地チームが出すのですが、地の利を活かして、毎年なかなか侮れない成績を残していました。(サニトラは南アでも売られていました。ピックアップは bakkie(バッキー)と呼ばれ、仕事にも遊びにも使えるので人気車種です)とはいえ、アウデイ・クワトロは3年目、日産は240RSをデビューさせた年で、すでに現代的な高速ラリーになっていた時代のことですよ!!

その類いで最も成功した一台は、プジョー504のピックアップトラックで、この年も、#18 ヘリアー/ホープ組がサニトラに1位先んじること総合8位にランクされています。

1983datsun_bakkie 1983peugeot504

#29 Datsun Bakkie – 9th / #18 Peugeot 504 bakkie – 8th


こんなんも模型であれば微笑ましい。

働くクルマたち。たのもしい。嫌いじゃないです。

装甲ブルドーザー、D9R。ミリタリースケールの1/35。D9Rは、対戦車ロケット弾による攻撃も耐えられる装甲を持つそうです。アメリカ軍とイスラエル軍に配備されています。

ユンカース Ju 52/3Mは、第2次大戦前はルフトハンザ航空の主力旅客機と使用され、大戦に入るとドイツ空軍の輸送機の役を回されました。大戦当初から低速かつ武装が貧弱との評価でしたが、他に変わりがなかったため大戦終了までドイツ軍の主力輸送機であり続けます。大戦後もフランスやスペインでライセンス生産され、1960年代までヨーロッパの定期航路を飛び続けたという、ある意味傑作機といえます。

クイーン・エリザベスII。日本では豪華客船の象徴として絶大の人気を誇る船です。
パナマ運河を通過するために全幅32mと細長く造られたことが、名称の印象にふさわしい優美なプロポーションを持つと評価される所以とのこと。

JNL(国鉄)時代のフェリーで宇野と高松を結ぶ連絡船、讃岐丸でしょうか?こういうのはフルスクラッチで作ってしまうのでしょうね。

以下、情景をご紹介。

織田・徳川連合軍が、火縄銃の3段撃ちの新戦法で武田騎馬隊を破ったという長篠の合戦の再現でしょうか?

マッドマックスの一場面。(実は観ていないので詳細知りません)

超大作、1970年のルマン24時間耐久レースのピットを再現しています。

#25は、ルマン史上初めて予選タイム200秒(3分20秒)の壁を破った(3分19秒8)ことで有名な、ザルツブルグ・チームのポルシェ 917L(ヴィク・エルフォード/クルト・アーレンスJr.組)。ただし、#25はレース開始1時間目まではトップを快走するも徐々に順位を落とし、17時間目、4位走行中にエンジントラブルでリタイヤしています。

さて、ここで上の情景の正確さを、実写と照らし合わせて検証してみましょうか(笑)

上の情景と異なり、”SOLEX” の看板の右側に”PORSCHE 3″ と “PORSCHE 25” の看板があります。

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“PORSCHE 25” のピット前の看板は “Castrol” 。

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“SOLEX” の看板の左側はひとつブランクで、その隣は “PORSCHE 23” の看板。ピット前の看板は左から “LUCAS” と “BOSCH”。(ちなみに#23 ポルシェ 917Kは同じザルツブルグ・チームのハンス・ヘルマン/リチャード・アトウッド組で、その年、総合優勝しています。ルマン参戦20年目でポルシェ初の総合優勝でもありました)

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なお、この年のルマンではスティーブ・マックイーン主演「栄光のルマン」(1971年)の撮影が行われています。機材を搭載したカメラカー、#29 ポルシェ 908/2は、撮影を行いながら24時間を走り切り、9位でフィニッシュしています。(周回数不足で完走扱いにならず)

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実在の場所
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銀杏の枯葉が宙を舞っている、というのが新しい表現ですね。

築城中の足場を再現しています。

ミリタリーものはあまりに多いので絞りました。

戦闘車両を置かず、路面電車メインに目新しさを感じました。

現代ゲリラの必需品というべきハイラックス・ピックアップの採用に新鮮味があります。

艦橋に68、ということは、CVN-68・・・最大最強の名を欲しいままにするニミッツ級空母の一番艦ニミッツですね。

呉式射出機(カタパルト)に乗った零式三座水偵ですね。

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これもおもしろいモチーフです。

世界唯一の潜水艦空母である伊400型に積まれた晴嵐だけでも見映えがする題材ですが、さらにその晴嵐がアメリカ機に偽装されているのが見ものです。(敵国機への偽装は戦時国際法に反する犯罪行為ですが、背に腹は代えられなかったのでしょう。史実です)

終戦間際に「嵐作戦」(ミクロネシアのウルシー泊地に停泊する米艦隊へ航空機で奇襲)が発令されます。米軍機に偽装された晴嵐を積んだ伊400と伊401は、8月17日未明に予定された奇襲に備え、ウルシー近海で待機していましたが、8月15日の終戦により作戦は中止と相成ります。件の伊号潜水艦2艇は日本への帰還途中、米軍の艦船に捕獲され、すべてが明らかになります。

この作戦では晴嵐は着水用のフロートの代わりに800kg爆弾を搭載したのですが、そのフロートは日本機色のまま、甲板下にしまわれていることも、ニクいことに表現されています。(奇襲後の帰還を考えていなかったことになります。まあ、無事に帰って来れるとは思えないというのも事実でしょう)

宮崎メカ模型倶楽部

宮崎駿作品に出てくるメカを立体で再現するグループがおられるようです。

東宝的SFメカ

メーサー殺獣光線車。これは有名なので知っています。

識者にコグレの「ワイルドモグラス」ではないかと伺ったのですが・・・どうも違うようです。モグラスのドリルをモチーフにしたオリジナルメカでしょうか?

スケールモデル命のタミヤが、サンダーバード・ブームを横目で眺めているだけではいられず、思わず出してしまった勝手流SFモデル「アポロ1号」(月面探検車)のようにも見えましたが、細部は全く違いました。オリジナル?海外作品モノ(宇宙家族ロビンソンとか)?

これもSF枠に入れておきましょう。「ナチスのUFO」というやつですね。

週末は重工業

実車の展示かと思ったら、1/1で再現した「模型」とのこと。

まあ、スケールはともかく、「プラ」モデルではないですね。

 

タミヤオープンハウス

ホビーショー会場近くのタミヤ本社では、ショー会期に合わせ、オープンハウスと称するイベントが行われるのが恒例です。

オールド・タミヤファンにとって、タミヤの住所は「小鹿628」であることは常識といえましたが、後日、そこには本社屋はなく、工場と物流センターがある場所、と知ったのは衝撃的でした。現在の住所表記は「恩田原3-7」となっていますが、それこそが本社所在地であります。新社屋完成を機に説明書や箱にある表記を「恩田原3-7」に変更したとのことですが、それでも変更したのは1980年と35年も前のことだったんですね!

おみやげのプラモを打ってくれる射出成型機。川口鉄工製。

1/1 ワーゲンビートル

ロータス 107 (1993-94)のノーズ。
長らく低迷期の続くロータスに、タミヤ他日本企業がよってたかってスポンサードしていました。

タイレルP34(1976)
六輪車にはムチャクチャ儲けさせてもらったそうです。#4はパトリック・デパイユ車です。

ウイリス MB (1942-45)
第2次大戦時モデルのMBと思われます。

フォード M151 (1960-69)
いわゆるジープ(ウイリスMB、M38)の後継車両。ジープに代わる愛称はマット(MUTT)。ベトナム戦争(1960-75)から実戦投入されます。

ジープはラダーフレームを持っていましたが、マットはモノコック構造を採用しています。フロントグリルが横スリットになったのは、ジープが縦スリットを意匠登録していたため、それを回避した結果です。

サスペンションも、ジープのフロント、リアともリーフスプリング&リジッドアクスルから、フロント、リアがそれそれ、コイルスプリング&ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング&スイングアクスルの四輪独立懸架になっています。しかし、そのスイングアクスルが、急旋回時の車体のジャッキアップ現象を顕著に現し、横転事故を誘発する原因となっていることが後に判明します。

フォード M151A2 (1970-)
上記ジャッキアップ現象への対策のため、リアサスをセミトレーリングアームへと変更したモデル。同時にフロントフェンダー前端の形状も変更されています。

ホンダ RS1000 (1981)
今回のイベントに向け、ホンダから借りてきた車両。
1/12でモデル化されています。

ホンダCX500ターボ (1977)
1/6と1/12でモデル化されています。

カワサキZ1300 (1979)
1/6でモデル化されています。CBXは出ませんでしたね~

RC30 (1987)、FZ250 FAZER (1985)、CBR400F (1983)
すべて1/12でモデル化されています。
日本中がバイクブームでした。プラモも売れていた時代でした。

ホンダCB1100R(D) (1983)
RDではなく、初期型のRBが1/6と1/12でモデル化されています。

スズキGSX750S(3)カタナ (1984)
1/12でモデル化。
前の型では750まで模型化していますから、3型の模型化は当然だったのでしょうが、スズキもタミヤも、実車がここまで不人気車となるとは思っていなかったでしょうね。

ヤマハRZV500 (1984)
1/12でモデル化されています。500Γも出してほしかったですね。

ホンダMVX250F (1983)
1/12でモデル化されています。
この頃は販促目的でオートバイメーカーが新車発売とプラモ発売が同時期になるよう協力してくれていましたから、このような超絶不人気車・・・どころか技術的失敗車としてメーカーも忘れたい車両もモデル化されることがありました。(今となってはキッチュな支持があるようですが)

KTMの実車・・・ではなく、タミヤ社員が、1/12ヤマハを改造して作ったものだそうです。

ISUZU Sport V12 (P799WE)

いすゞのF1用試作エンジン。数基作られ、タミヤに展示されているのはそのうちの1基。あとはいすゞ藤沢工場にあるとか。

いすゞでF1用V12エンジン製作が始まったのは1990年はじめのこと。社内外的には試験名目でしたが、そんなもの使ってくれるあてがなければ造りませんって。いすゞはその頃、ロータスの市販車エランにエンジンを供給しており、その関係から見込み納入先はロータスであることは濃厚。当時のロータスは長期低迷の時期にあり、日本企業とのコネがチーム存続の砦となっておりました。

翌91年初めにはベンチでエンジンに火が入り、8月には実走テストとトントン拍子でコトが進みます。テスト用シャーシを提供したのは、やはりロータスで、シルバーストーンで実走テストまで行われたことは間違いないのですが、結局、いすゞのエンジンは実戦に供されることはありませんでした。

バルブ期のジャパンマネーは、F1界への金銭的スポンサードのみならず、チーム買収など強烈な影響を与えておりました。エンジン供給もそのひとつ。1989年よりターボ禁止、自然吸気エンジンに一本化され、敷居が下がったことは大きかったと思われます。いすゞ以外のメーカーも「ホンダに続け」とばかりにエンジン製作に励むことになります。

以下、ウンチクとしてご紹介いたします。

ヤマハ

ヤマハは、実戦に V8、V12、V10 と3種のエンジンを9年という長期に渡り提供していました。成功はしませんでしたが。

ヤマハは国内F2、F3000でホンダと伍し、時には凌いだという実績を引っ提げ、1989年、エンジン供給でF1に参戦を開始します。得意の5バルブヘッドを持つV8エンジン(OX88)をザクスピードに供給するも、成績は低迷し、ファーストドライバーのベルント・シュナイダーは、前年10回の予備予選不通過の記録を14回(16戦中)に伸ばし、ヤマハエンジンの紐付きだったチームメイトの鈴木亜久里は予備予選全戦不通過の汚名を残します。

ox88

OX88

OX88の大失敗に慎重になったヤマハは、1年間の猶予期間を取った後、1991年にV12エンジン(OX99)を引っ提げ復帰します。V12は、資金難でチーム存続が風前の灯にあり、起死回生を狙っていたブラバム(日本人オーナー、結局、翌92年いっぱいでチームは消滅する)に供給されるも、成績はふるいませんでした。(シーズン合計3ポイント)

翌1992年、OX99はジョーダンに供給されるようになります。前年まで手堅い成績を上げてきたジョーダンは、ヤマハエンジンを積んだ途端、成績は落ち込み(シーズン合計1ポイント)、ヤマハとジョーダンとの関係はたった1年で破綻します。

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OX99

そんな尻に火が付いた最中、ヤマハは何を思ったのでしょう。デチューンしたOX99エンジンを積んだロードカーOX99-11を1億円程度で販売する計画を発表します。(バブリー!!)幸いにも?市販に移されることはありませんでした。試作車は、黒と赤、1台ずつの最低2台が存在しています。(追記:英国で公道登録された濃緑を追加して3台が現存の模様)

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OX99-11

1993年、ヤマハとジャッドはエンジンの共同開発の歩調を取ることになり、なんとホンダ由来であるジャッドGVの腰下にヤマハ製ヘッドを組み合わせるという「超法規的措置」を行います。そこから生まれたV10(OX10)を片山右京と紐つけ、ティレルへの供給を開始します。ティレルとの関係は以後4年間に渡り存続します。

初年度はポイント獲得に至りませんでしたが、翌94年、改良されBスペックとなったエンジン(OX10B)は、スペインGPでマーク・ブランデルが3位に入るなど、にわかに好調を示し、ヤマハ史上最大のシーズン合計13ポイントを得ています。(この年がヤマハのピークでありました)

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OX10

1995年にレギュレーション変更に合わせ排気量を3.5Lから3.0Lに落としたOX10C(ジャッド版はHVと呼称)を、引き続きティレルに供給しますが、シーズン合計5ポイントと成績はふるいませんでした。

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OX10C

1996年には完全新設計で大胆に軽量コンパクト化されたOX11(ジャッド版 JV)をティレルに供給するも、その軽量コンパクトさゆえのケース剛性の低さを原因としたトラブルが多発し、シーズン合計5ポイントと成績はふるいませんでした。この年をもって4年に渡るティレルとの関係は終了します。

1997年はOX11をアロウズに供給します。第11戦ハンガリーGPでは予選3位のデイモン・ヒルは終始レースをリードし、ヤマハとアロウズにF1初優勝の栄誉を与える寸前までいきましたが、残り2周でギアボックストラブルが出て減速、わずか数コーナーを残すところで首位を奪われ2位でフィニッシュ。これがF1におけるヤマハエンジンの最高位となりました。(シーズン合計9ポイント)

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OX11

1998年、アロウズは買収したハートのエンジンを自社開発エンジンとして使用することを決めると、他にヤマハエンジンを求めるチームはなく、結局、この年をもってヤマハのF1での活動は終了します。

スバル

この件におけるスバルは、一言でいえば「白昼堂々行われた国際的サギのマヌケなカモ」と言えましょう。

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SUBARU MM 1235

水平対向エンジンへのこだわりという共通点から、スバルとカルロ・キティ率いるF1用エンジン製造業者モトーリ・モデルニは急接近します。いや、カルロ・キティはスバルの持つ金の匂いに引き寄せられただけだったのかもしれません。とにかく、モトーリ・モデルニはスバルの金でF1用フラット12エンジンの設計・製造を請け負うことになり、1988年、スバル・モトーリ・モデルニ1235が完成します。

先に言っておきますが、結果的にスバル・モトーリ・モデルニ1235は、徹頭徹尾、何の救いもない失敗作と判明するのですが、実のところ、あのバカでかいフラット12が日の目を見た瞬間すでに、カルロとスバルの関係者以外の誰もが・・・否、カルロ以外の誰もが、ため息をついたものでした。そのフラット12は、70年代にアルファロメオで成功した自身のフラット12を(4バルブから5バルブに手直し、スバルのバッジを付けた程度で)そのまま焼き直しただけ、と断じられました。つまりスバルからせしめた開発資金のほとんどを自分のポケットにしまいこんだのではないかというわけです。(実は、スバルは宣伝広告費程度のはした金しか出しておらず、モトーリ・モデルニの尻馬に乗っただけ、という説もあります)

上で書いたとおり、カルロにはフラット12での成功体験がありました。カルロがアルファロメオのレース部門、アウトデルタを率いていた時代、グループ6のティーポ33に用意したフラット12は成功し、1973年から1977年まで使用された中、1975年と1977年と2回のメイクスチャンピオンの栄誉に輝いています。

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1975 TT12 / 1977 SC12

スポーツカーレースで成功したフラット12はF1に流用されます。当時のF1では、同じ180度V12を積むフェラーリ312Tシリーズが長らく権勢を奮っていたので、期待されたのでしょう。アルファのフラット12は1976年から1978年までブラバムに供給されました。1978年にはブラバムはそのエンジンで2勝を挙げてはいますが、その勝利の要因は、ドライバー(ニキ・ラウダ!)だったりシャーシ(有名なBT46B = ファンカー!!)だったりによるところが大で、エンジンはむしろ信頼性の低さで足を引っ張っていたといえるものでした。

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1978 Brabham BT46B

幅広の180度V12は当時のトレンドであるグランドエフェクトに適さないため、ブラバムのチーフデザイナー、ゴードン・マーレーの求めによって、1979年シーズンに向けのエンジンは60度V12に造り直されました。しかし、バンク角を60度にしたところで、信頼性の低さは変わることはなく、結局、1979年シーズンを終える前にブラバムはアルファV12をコスワースDFVに載せ換えてしまいます。

一方、ブラバムがフラット12を捨てたのと入れ替わる形で1979年から、アルファロメオは自社製シャーシとフラット12を組み合わせたコンプリートカー、177でF1参戦を開始します。(名前の通り、おそらく77年に製作したエンジン開発テスト用シャーシを流用)

177

1979 Alfa Romeo 177

カルロは自身のプライドであるフラット12を否定されることは耐え難かったのでしょう。お前がやらなければ俺がやる、といった意地の境地でしょうか。177は、当然テールエンダーでした。10年前すでに彼のフラット12はF1では通用しないことが分かっていたのです。

話をスバル・モトーリ・モデルニに戻します。実走テストはモトーリ・モデルニと浅からぬ関係のあったミナルディ(1985年から1987年までモトーリ・モデルニ製V6ターボを使用)で行われましたが、フラット12の実戦使用は断られます。どうしようもなくなったスバルは、弱小F1チーム、コローニを買収しエンジンをあてがうことで、1990年、F1に参戦します。

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1990 COLONI C3B

大きく重く、馬力も不足している上、信頼性も低いエンジンは、動かすたびによく壊れました。シーズン半ばの8戦まで出走した段階で、今後、予備予選を通過するどころか、絶望的な遅さが改善される見込みもない、と判明したため、スバルはシーズン途中の撤退を決定し、以降、完全に沈黙を決め込みます。

日本側のキーマンは、スバルの社員ドライバーとして一時代を築き、STI常務の座に就いていたT.Y氏ですが、当時、買収したコローニの代表としてイタリアに常駐し、陣頭指揮を執っていました。 カルロ・キティとは単なるビジネス関係以上のつながりがあったようで、スバルのF1プロジェクトが破綻すると、その責任を取ってSTIを辞めざるをえなかったようですが、イタリアに残り、モトーリ・モデルニ副社長の肩書を有していたこともあります。老獪なカルロは、ジャパンマネーを引っ張るための窓口を残しておきたかったのかもしれません。

同じ年、このエンジンはグループCカー(ALBA AR20/1)でも使われましたが、F1同様、遅い上、よく壊れたため、こちらもシーズン半ばでビュイック製V6に載せ換えられています。

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ALBA AR20/1

同時に、スバル、童夢、ワコールのジョイントベンチャーとして、スバル・モトーリ・モデルニ1235をデチューンして積むジオット・キャスピタなるスーパーカーの市販が計画されていました。(バブリー!!)上記スバルの全面撤退によりスバルからのエンジン供給が宙に浮くも、計画は続行されます。

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1989 JOTTO CASPITA

エンジン選定に紆余曲折の末、F1用ジャッドV10エンジンが選ばれ、1993年、京都ナンバーを付けた公道走行可能な2号車がお目見えしますが、市販に至ることはありませんでした。

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1993 JOTTO CASPITA II

当時、キャスピタは童夢とワコール主導のプロジェクトに見えていましたが、後年の童夢社長の林みのる氏に記述によれば、スバルとワコールのJVを童夢が受託したとのことです。「折からのバブル崩壊を受けてSUBARUが手を引いてしまったので、仕方なく、ワコールと童夢で何とか完成まで漕ぎ着けたものの、街中を走り回るところまでは行き着きませんでした。」というのが林氏の弁。

HKS

潤沢な資金を持つ自動車製造メーカーではなく、日本でも、ヨーロッパの独立系エンジンビルダー程度の規模の会社が、F1エンジンを開発していたことが注目に値します。

hks300e

HKS 300E

300Eと名付けられた3,491cc V12 DOHC 5バルブのバンク角は75度。

独立系といえども、過去に三菱車のレース車両製作を請け負うなどHKSと三菱自動車との関係は深く、300Eの開発には三菱の出資があり、F1には三菱名義で参戦するのではないかという憶測をされておりました。1992年9月、F3000シャーシに積まれFISCOで実走テストが行われるまで開発は進んでいましたが、実戦に出ることはありませんでした。

無限

1992年から2000年まで9年間にわたる無限のF1における戦績は、優勝4回、ポールポジション1回、獲得ポイント合計182と、ここで紹介するエンジンンの中では別格の位置にありますが、これは、事実上、型落ちのホンダ製チャンピオンエンジンを(ホンダから有形無形のヘルプを受けながら)走らせ続けたゆえの当然といえば当然の結果であります。

1987年から1988年にかけて、無限は独自でF1用V8エンジンの開発を行っていたそうです。実走テストまで行われていたとのことですが、例によって実戦デビューすることはありませんでした。

1992年限りでF1から撤退するホンダは、コスワースDFV的な誰でも買うことのできるハイパフォーマンスエンジンをF1界へ置き土産として残したい、そのサプライヤーには、ジャッドがふさわしいと目し、一方、無限には、ホンダの撤退と同時に日本人ドライバーがF1のシートを獲得する機会が無くなってしまわないよう、ドライバーに紐付けるエンジンを供給する役割を期待したのではないかと思われます。

そのエンジンには、1991年に中嶋悟の在籍するティレルに供給されたV10(RA101E)が選ばれます。(RA101Eは前年の90年にマクラーレンが相変わらずの強さでコンストラクター&ドライバーのダブルタイトルをとったチャンピオンエンジンRA100Eのカスタマー版というべき存在です)RA101Eは無限ではMF351Hとなり、ジャッドではGVとなります。

MF351H

MF351H

MF351H/HBは、1990年の日本GPで3位となった上り調子の鈴木亜久里と紐づけられ、1992年から1993年まで、フットワーク・グランプリ(アロウズ)に供給されましたが、鈴木亜久里は2年間でノーポイントに終わりました。

1994年はロータスに、1995年から1996年まではリジェに供給。 1996年モナコGPではオリビエ・パニスが、パニス本人および無限エンジンにとっての初勝利を挙げています。

1997年、リジェがアラン・プロストに買収され、チームはプロスト・グランプリとなると、そのまま横滑り的にプロスト・チームにエンジン供給することになります。翌年からオールフランス体制とすべくプジョーエンジンへの乗り替えを決めていたプロストにとって、無限エンジンにはなんの興味もなく、ただでさえ性格最悪の上、過去の確執から日本嫌いで知られるプロストは、無限エンジンに紐付きされていた中野信治を、大人のイジメ術を駆使して徹底的に冷遇します。(それでも彼は逆境の中、2回の6位入賞で気を吐きます。皮肉なことに、プロスト・グランプリの5年間のうち、最も成績の良かった年が、無限エンジンの1997年でありました(ランキング6位))

1998年から2000年まではジョーダンに供給。1998年ベルギーGPではデーモン・ヒルが優勝、ラルフ・シューマッハが2位と、無限初のワン・ツーフィニッシュを飾り、1999年にはハインツ=ハラルド・フレンツェンがフランスGPとイタリアGPの2回優勝するという健闘ぶりです。無限の好調子に本家ホンダは居ても立ってもいられなくなったのか、2001年からジョーダンにエンジン供給する形でホンダのF1復帰が決定したため、2000年いっぱいで無限のF1参戦は終了します。結果的に、無限はホンダがF1に復帰するまでの繋ぎ役、ホンダの別働部隊の任を果たしたといえましょう。

スズキ

勝手ながらの判断ですが、バブル崩壊でポシャったF1エンジンの中で一番知られていなかった(秘密が漏れなかった)のが、スズキ製エンジンではないでしょうか。

ある時期、スズキの社内展示場(旧・ハーテックプラザ、現・歴史館)に、3.5L V12および3.0L V10という2つのF1用エンジンが展示されていたとのことです。(今はまたしまい込まれてしまった?)

まず、1991年に3.5L V12が完成したそうです。当然というか、開発の陣頭指揮を執っていたのが、スズキの歴代名作バイク用エンジンを設計してきた横内悦夫氏とのこと。

suzuki_v12

1991 YR91 – 3.5L V12

何と驚くべきことに、このエンジンはレイトンハウス(マーチを母体にする新興チームではありましたが、限られたリソースの中、随所で光る走りを見せていました)へ供給する話が進んでいたそうです。しかし、1991年9月、チームオーナーの赤城明氏が、総額7,160億円というバブル的犯罪の象徴として世を騒がした富士銀行不正融資事件に深く関わっていた件で逮捕されるに至り、供給計画はなし崩し的になくなったということです。(翌92年、レイトンハウスは元のマーチ名義に戻りF1レース活動を続行しますが、92年シーズンを終えるとチームは消滅してしまいます)

suzuki_v10

1995 YR95 – 3.0L V10

そのような経緯の中、1995年のレギュレーション変更に合わせた3.0Lエンジンが、当時のトレンドに則したV10で新たに製作されています。2輪でのライバル、ホンダ(無限)、ヤマハが継続してF1で実戦活動している以上、志半ばで止めるわけにはいかない心情だったのでしょうか?

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