E藤氏のレポートは止まりません。今回は東洋のモナコの異名を取る熱海は長浜海浜公園で行われたACJ(Automobile Club Japan)主催の「熱海ヒストリカGP」をご紹介いたします。なお、GPはGrand Prixではなく、「がんばるパパ」の略とのこと。(2輪でも良いイベントがないかなあ、と探しているのですが・・・)
まずはラテン系車から。
CITROEN 11CV Leger – 1950
1934年から1957年までの24年間、第2次大戦を股にかけ製造され続けた11CVは、自動車史上、前輪駆動(トラクシオン・アヴァン)とモノコック構造を極めて早くに採用したという先進性で名を残しています。
Leger(レジェール)は英語で light の意。11CVの由来は、フランスの馬力課税(日本は排気量課税)のカテゴリーからです。7CVという、11CVの15HPから12HPまで出力を落とした節税モデルも造られていた時があります。(ちなみに現在のフランスでは、馬力課税どころか自動車税自体、廃止されているとのことです)
もう一台、グリーンの展示もありました。
1940年のパリ陥落から1944年の解放までの5年間は、フランスはナチス・ドイツの占領下に置かれ、フランスのものはドイツのもの、となっていました。ドイツ軍に徴収された11CVはその出来の良さから、ドイツ軍士官が好んでプライベートカーとして乗り回しておりました。
タミヤも11CVを模型化していますが、ドイツ空軍仕様です。フランス人はこの模型を屈辱的・・・ではないにしても複雑な気持ちで見ることでしょう。
デライエ135のレーサーまでもが、ドイツ兵士に乗りまわされているのを見るのは衝撃的です。ご丁寧にヘッドライトには灯火管制カバーが付けられています。白黒写真なのでわかりませんが、フレンチブルーのボディカラーは、きっと軍用色のグレーに塗り替えられてしまっていることでしょう。
占領下のフランスでは「対独協力」が義務付けられていましたが、シトロエンがナチスへの協力を最小限にとどめようとしたのに対し、ルノー創業者でルノーの株式の90%以上を握っていたルイ・ルノーは、ナチスに迎合し、積極的にナチスのために兵器生産にいそしむようになります。ルノーがそこで得た利益は、総計120万ドル(現在の価値で約1,800万ドル=6,480億円)を越えると推定され、ルノーの工場はレジスタンスの憎悪の対象となり、RAF(英空軍)の爆撃目標にされるほどでした。
パリ解放後、ルイは対独協力者として逮捕、拘留されますが、わずか1ケ月もたたないうちに獄中死してしまいます。齢67の老体に受けた過酷なリンチの結果と言われています。まもなくルノー社は国家に没収され、公団となりますが、裁判なく行われたこの決定に対し、ルイ・ルノーの子孫は不服を申し立て、国家を相手に訴訟を行いました。戦後68年経た2012年、ついに最終結審でルノー没収は合法と確認されたのでした。
ちなみに、このルノー暗黒の歴史について、ルノージャポンHPでは、『第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏すると、ルノーはドイツ軍の圧制下に置かれます。それは自動車メーカーとして避けらぬ運命でした。しかしこの結果、フランス解放後ルノー社の資産は国に没収されることとなります』と本質をぼやかしながら、あっさりと流しています。
ヒトラーとフェルディナント・ポルシェの蜜月は、フォルクスワーゲン誕生のいきさつを挙げるまでもなく、よく知られた事実です。ポルシェ自身はナチス的思想とは遠いところにいたと言われていますが、ヒトラーのお気に入り技術者として、物理的にはあまりに近いところに居続けました。ポルシェはドイツ敗戦後、フランス政府によって逮捕されるも2年の拘留期間を経て、1947年8月に釈放され自由の身になります。(フェルディナントの息子フェリーは、父の拘留中、チシタリアのGPレーサーを設計し、そのギャラを父の保釈金に充当しました)フェルディナントは、拘留中にルノー公団における4CVの開発に協力させられたとのことです。
フォード創業者、ヘンリー・フォードがナチスに近いところにいたこともあるというのは、あまり知られていない事実ではないでしょうか。ナチスが政党として立ち上がった1922年に、フォードは外国人として初めての政治献金を行っており、さらにフォードは、1938年、ナチス・ドイツ政府から外国人が受けられる勲章としては最高位の「大十字ドイツ鷲勲章」を授勲しています。これはドイツにフォード式の大量生産システムを伝授したことが、その理由でしたが、実のことろ、フォードとヒトラーは思想面で通底するところがあったのです。
フォードの徹底したユダヤ人嫌いは有名で、反ユダヤの意見表明の場とするために地元の新聞社を買収するなど、ありあまる財力を駆使し、プロパガンダを行っていました。ただし、ヘンリー・フォードの反ユダヤは、彼の純朴で理想主義的な職業倫理から生まれたものでした。彼は、いやしくも企業として社会に存在させてもらっている以上、企業は社会に奉仕し、社会を構成する人々の生活を豊かにする役割を果たさなければならない、と本気で考えていました。(T型フォードは、まさしく、その理念の結実でした)それゆえ、人の生き血をすするが如くの高利貸し(ユダヤ人の典型的職業のひとつ)に反感以上の憎悪を抱いていたのです。
(ユダヤの高利貸しについて追記(弁護)しておきます。キリスト教は利子をつけて金を貸すことを厳しく禁じていた一方、ユダヤ教は異教徒に対してのみ、利子の徴収を許していました。自ずと(宗教的に忌み嫌われる)「金貸し」は、生産手段である土地を持てないユダヤ人の生業となっていきます。しかし、歴史と言うものは皮肉なもので、彼らはそこから、無記名の証券=紙幣を始めとする、銀行、為替、株券、保険、証券、債券・・・といった現代の経済活動に必須の金融システムのほとんど全てを構築していったのです。そのシステムを操るのが一番上手だったのは、その考案者自身であったというのは当然のことでしょう)
CITROEN 2CV
1948年から1990年までの42年間もの間、大きなモデルチェンジなく生産され続けた長寿モデル。総生産台数387万2,583台。(年平均9万2,200台。これは意外に大きい数字です)
名称は11CVと同じく、属する馬力課税の2CVカテゴリーから由来します。ただし、額面の2CV(2馬力)ではなく、実際は9馬力ありました。
2CVのOHV空冷水平対向2気筒エンジンは、さすがに40年以上、9馬力のままではなく、以下の通り進化しています。
・375cc( 9HP、Aタイプ、1948年-)
・425cc(12HP、AZタイプ、1955年-)
・602cc(28HP、2CV-6、1968年-)
・435cc(21HP、2CV-4、1968年-)
なお、602cc仕様は馬力課税のカテゴリーは3CVとなるも、車名は2CVのままでした。
1939年に作られたプロトタイプ。最小限の装備を追求した故のシングル・ヘッドライトが特徴的。
最初期モデル。リップル(さざ波)ボンネットを特徴としています。
FFの2CVのリアにエンジンが!?
ツインエンジンで4WDを実現したサハラです。1960年から1967年までに、たった694台しか造られなかったのは、通常モデルの倍という高価な価格のためでした。
ALPINE V6 TURBO (a.k.a. GTA)
RRに搭載されるエンジンは2,458ccターボで最高出力200PS。
MASERATI 3500GT
マセラティの伝家の宝刀、3,485cc・DOHC2バルブ直列6気筒エンジンは、ツインチョーク・ウェーバーDCOEを3基搭載し、最高出力220馬力を発揮します。
MASERATI MERAK SS – 1975
4L・V8をミッドシップに積むボーラに3L・V6を積み、余ったスペ-スに+2のシートを確保したのが、ボーラの廉価版、メラクです。そのV6は、親会社シトロエンの依頼でマセラティがシトロエンSM用に設計したものを流用、初期型メラクで190馬力、パワーアップバージョンのメラクSSでは220馬力を発揮するとのことです。
ボーラ同様、ブレーキの油圧系統ほかに、シトロエン直伝のハイドロニューマチックを採用しています。これがただでさえ信頼性が高いとはいえないマセラティの中でも、(ボーラと)メラクの信頼性を地の底に沈める原因となっています。
ボーラのファストバックスタイルからスーパーカーらしいノッチバックスタイルに変更されています。
同時代のフェラ-リ、ランボルギーニと比較して、うんざりするほど造りが悪かったことは別にして、とかく見た目が地味とされたマセラティですが、今見るとなかなかどうして・・・ジウジアーロの傑作のひとつと言えるボディデザインではないでしょうか!?
MASERATI 430
FERRARI 246GTS Bizzarrini Speciale
ビッザリーニの名を冠したスペシャル。1970年代後半頃にスペシャル製作が計画され、1983年に完成したそうです。ジョット・ビッザリーニはボディデザインを担当。ボディはオリジナル・ディノのスチール製ではなく、アルミ製。ホイールもこの車のために起こされた専用品だそうです。
ジョット・ビッザリーニは、1957年、アルファ ロメオからフェラーリに移籍すると、「250TR」「250GT SWB」に続き、伝説的な「250GTO」の開発に携わったことで著名なエンジニアです。
250GTOが完成に向け大詰めの状況だった1961年11月、フェラーリお決まりの「お家騒動」で、カルロ・キティやジオット・ビッザリーニほか主要メンバー8名がフェラーリから一斉に離反すると、彼らは公道上でもサーキットでもフェラーリに対抗するコンストラクターとなるべくATS(Automobili Turismo e Sport)を旗上げします。
フェラーリ車を使った有力プライベートチームのオーナーであったジョバンニ・ヴォルピ伯爵は、2台のGTOを1962年シーズンに向けてフェラーリにオーダーを入れていましたが、ヴォルピ伯爵がATSのスポンサーであることがエンツォに知れると、そのオーダーは破棄されてしまいます。これに怒ったヴォルピは、GTOを追撃できるレーサーの製作をビッザリーニに依頼します。1年落ちの250GT SWBをベースに造られたGTOキラーは、その特異なボディ形状から「ブレッドヴァン(パン屋のヴァン)」と呼ばれるようになります。当時も今もGTの頂上決戦の場はルマンですが、はたして両車の戦いのゆくえは・・・
ビッザリーニは、ATSでの活動と並行して、自身のエンジニアリング・コンサルタント会社も設立します。そこでは、イソのシャーシ設計やランボルギーニのV12エンジン設計など、これからスーパーカー市場に打って出ようとするメーカーの仕事を請け負っています。
ビッザリーニが面白いのは、自動車メーカーから依頼を受けた仕事が何らかの理由で中止になってしまった場合、それを自分名義の仕事として続けてしまうところです。
イソでは、GTデビュー作「リヴォルタ」の後継モデル「グリフォ」の開発において、社内デザイナー提案の2+2の豪華GTという路線と、ビッザリーニ提案のレーシーな2シーターという路線に完全に分裂、対立してしまいます。両車はコルベット用V8をFRに搭載する以外、全く異なる車といえましたが、1963年のトリノ・ショーには、社内デザイナー案をロードカー「グリフォ A3/L (Lusso)」、ビッザリーニ案をレーシングカー「グリフォ A3/C (Corsa)」として発表し、イソの社主は、なんと、その両車に生産の許可を与えます。A3/Cは、ビッザリーニの工房で細々と製作されましたが、22台を作り終えた時点で、ビッザリーニとイソは袂を分かつことになります。A3/Cのプロジェクトは、ビッザリーニに引き取られると、以降ビッザリーニ・グリフォ5300ベルリネッタの名で、途中ビッザリーニ5300GTに改名され造り続けられました。(イソからグリフォの名前を使うことにクレームが入ったのかもしれません)
AMC(American Motors Corporation )は、ビッグ3のメイン市場と真っ向ぶつからないようコンパクトカーに力を入れていた地味目なメーカーでしたが、自社製マッスルカーAMXのイメージを高めるために、1966年より定期的にAMCとしては派手目なコンセプトカーをぶち上げておりました。その3作目が1970年発表のAMX/3です。AMX/3はAMCが発表した段階ではデザイン・モックアップに過ぎませんでしたが、それを実動させるための開発作業がビッザリーニに依頼されたのでした。
ビッザリーニでは、AMX/3を安易にFRPで造ることなく鋼板セミモノコックボディを用意しましたが、その形状はAMCデザインのモックアップを忠実に再現した完成度の高いものでした。AMC製6.4L・V8は、イタリアのオット・メラーラ製4速MTと組み合わされ、ミッドシップに積まれます。イタリアへの送金が200万ドル(現在の価値で約28億円)を越えた時点でAMCの資金が枯渇し、プロジェクトはキャンセルされますが、それまでにイタリアからAMCに送られた完成車は、わずか5台だけでした。
ビッザリーニの手元には、あと何台分かにはなるパーツが残っており、それらを組み立て自社ブランドのビッザリーニ・シャボラ(Sciabola)として売る計画が立てられます。しかし結局、シャボラとしては1台のみが造られたに過ぎず、市販には至りませんでした。(しっかりリーフレットが作られているところは笑えます)
(この手の、アメリカとか日本とかのアブク銭を喰い物にするやり方を、イタリア人はしばしばやらかしますね!習性と言ってよいでしょう)
FERRAR 308GTS
FERRARI 328GTS
Koenig Testarossa
ツインターボ仕様は710PSを標榜していましたが、この車両はターボは付いていないようですね。
DeTomaso PANTERA GTS
このGTSは、ぶさいくな5マイルバンパーを装備しているので、アメリカ仕様です。そのバンパーの鼻先に付いているエンブレムに注目!デトマゾのそれではなく、パンテーラをデザインしたカロッツェリア、ギアのものとなっています。(その理由は後述します)
驚くべきことにパンテーラは、フォードの正規ディーラー(リンカーン・マーキュリー)でカタログモデルとして購入できたスーパーカーです。
以下の画像は、リンカーン・マーキュリーで配られたGTSのリーフレットの表&裏表紙ですが、その中身頁も含め、デトマゾという文言は一言も出てきません。”PANTERA by Ghia imported for Lincoln-Mercury” (リンカーン・マーキュリーのために輸入されたギアによるクルマ)としています。実はパンテーラGTSは、USではデトマゾの車ではなく、それをデザインしたギアの車として売られたのでした。
下の画像は初期型”L”のUSでの広告です。当初はちゃんと”Panteta by de Tomaso imported for Lincoln-Mercury”とありました。デトマゾではアメリカの金持ちには受けが悪かった、ということなんでしょうね。
LAMBORGHINI DIABLO
リトラクタブル・ヘッドライトをもつ前期型です。(後期型はフェアレディZ32の純正部品を堂々採用し、固定式ヘッドライトとなっています。万が一のライト交換の費用が安く済んでいいですね!)
これが後期型のヘッドライトです。
Z32のヘッドライト。たしかに同じものです。
Z32のヘッドライトは、他のスーパーカーも使っています。
日産のプロトタイプレーサーR390のGT1ホモロゲーション用公道モデルです。レギュレーションが決める最低限の1台のみ製造され、公道走行可能な市販車という名目上、1億円の値札をつけられますが、初めから売る気はなかったようで、買いたいと手を挙げる人がいたものの、売らなかったと聞いております。
AUTO BIANCHI A112 ABARTH
A112は現代のFF機構の主流となっている「ジアコーサ式FF」の先行テストベッドであったことで有名です。(アウトビアンキの親会社フィアットは、新しいFF機構を、まずは比較的生産量の少ないアウトビアンキ車に採用し、その結果に満足したフィアットは、自社の最大生産量車127へも採用しました)
A112のベーシックモデルは903cc/42PSですが、アバルトには、982cc/58PSと1,050cc/70PSの2種類のモデルが存在します。
FIAT 124 ABARTH RALLY
124アバルト・ラリーは、1972年、Gr.4ラリー向けに500台限定で生産されたホモロゲ車両で(あまりの人気ですぐに500台追加され、Gr.3の資格も獲得)、アバルトがフィアット傘下となって最初に世に出したチューニングカーです。124スパイダーをベースに、外観の変更、エンジンチューンの他、リアサスペンションが独立懸架方式に変更されるなど、大きく手が入れられています。
1973年から始まったWRCではワークスマシンが、73年、74年、75年と3年連続で総合2位を獲得しています。同じフィアット・グループにあり1974年WRCデビューのランチア・ストラトスが、74年、75年、76年と3年連続でWRCチャンプを獲得するにあたり、124は上手く援護役を果たしといえましょう。
FIAT 131 ABARTH RALLY
設計段階でラリーカーとして最適化されたストラトスは、当初の思惑通りWRCで常勝するも、フィアット幹部らはそれを全面的に喜べる状況にありませんでした。というのも、量産車と無関係のストラトスの活躍は、直接的な販促に結び付かなかったからです。結局フィアットは、ワークス・ラリー活動は量産車ベースで行う、という元の方向に舵を切り直します。131ミラフィオリがそのベースに選ばれ、1976年、Gr.4ラリー向けにアバルトでチューンされた131アバルト・ラリーが発表されます。当初、131アバルト・ラリーは400台限定生産の予定でしたが、市場で人気が出たため最終的には1000台ほどが造られました。131アバルト・ラリーは期待に違わず、1977年、78年、1980年のWRCチャンプとなっています。
FIAT ABARTH 850TC Nurburgring
FIAT 500D
FIAT ABARTH 595
FIAT PANDA
ジョルジェット・ジウジアーロの簡潔でありながら可愛らしさも醸すデザインが支持され、1980年から2003年までの24年間、大きな変更を受けずに継続生産されました。名称のパンダは、開発当初、主要市場に中国が意図されていたゆえに命名された、と言う人がおりますが、本当でしょうか?
FIAT X1/9
128のユニットを使用するも、その名は128スパイダーとならず、開発コードそのままの「X1/9」(X1計画の9番目の意味)が正式名称に採用されました。スーパーカーのデザインを得意とするマルチェロ・ガンディーニの才能は小型スポーツカーにも冴えわたっています。1972年12月に生産開始するも赤字であり続けたため、1982年、フィアットはX1/9の一切の権利をベルトーネに譲渡。以後、ベルトーネX1/9として1989年3月まで生産されます。17年間で合計16万台以上のX1/9が世に出ました。
トヨタの初代MR2は間違いなくX1/9から強い影響を受けています。
X1/9といえば、有名な都市伝説があります。「ある時期、格安X1/9の新車が結構な数で日本の市場に流れ込んで来たが、実は、それらは、USにおいて在庫中に災害で水没した車両だった」というものです。
格安X1/9が日本に流れ込んできたのは事実で、その時すぐにその噂は人口に膾炙されたようですが、X1/9が極めて錆易いクルマであるという事実を揶揄したウソ、と一笑に付されることが多かったようです。
後年、真偽を調べたメディア(自動車雑誌だったと記憶)は、船で輸送中に台風に会い、波を被ったX1/9が日本に入ってきていたことは事実、としていました。火(非)の無いところに煙は立たず、というのように、この手の話は、あながち都市伝説と簡単に切り捨てるのも利口ではないようです。
実際、2006年7月、マツダの対米輸出車4,700台を満載した輸送船「クーガーエース」がアラスカ沖で船体が傾き航行不能に陥るという事故が起き、積載されていたクルマは相当なダメージを受けたということがありました。
さすがに今は高度情報化社会、北米マツダは、この件に関し、「クーガーエースで運搬中のマツダ車は、新車として販売されることはない。修理不能な車両は直ちに廃棄する。修理により販売可能な車両については、米国、カナダで中古車として販売する可能性があるが、クーガーエースに積載していた車両の車台番号は、北米マツダおよびマツダ・カナダのウェブサイトに掲載し、ユーザーに区別がつくようにする。」と声明しています。この件もいつか都市伝説化することがあるのでしょうか?
LANCIA BETA MONTECARLO
当初は「フィアット X1/20」として、X1/9の上級モデルとして企画されていましたが、より高級なランチアブランドが与えられることになります。1975年のジュネーブ・モーターショーで、FFのランチア・ベータの中で異色のMRスポーツ、モンテカルロとしてデビュー。x1/9はベルトーネ主導でしたが、X1/20はピニンファリーナがデザインから車体製造まで行なっています。
Alfa Romeo Giulietta Spyder
Alfa Romeo Giulietta Sprint Speciale
Alfa Romeo Giulietta SZ
Alfa Romeo Spider (Sr.1)
Alfa Romeo Spider (Sr.3)
Alfa Romeo Spider (Sr.4)
Alfa Romeo Junior Z
1969年のトリノ・ショーでデビュー、1975年まで生産された、Z(ザガート)によるスペシャルモデル。ベースのジュリアGTは4座でしたが、ジュニアZは2座とされています。
Alfa Romeo Giulia 1300 GTA Junior
Alfa Romeo Giulia 1300 GT Junior
Alfa Romeo 2000GTV
Alfa Romeo SZ
1989年、75をベースにザガート・デザインのボディを架装し登場。アクの強いデザインから「イル・モストロ」(怪物)というあだ名が付けられています。1991年、生産終了するも翌92年から93年までオープンモデルのRZが発売されます。
Alfa Romeo 155
FR駆動の75の後継モデルにあたりますが、フィアットが親会社になったため、フィアット系3社(フィアット、ランチア、アルファロメオ)の共通プラットフォームが与えられ、FFとなります。
当時のイタリア国内ほかDTMやBTCCなど、ヨーロッパでのツーリングカーレースのベース車両に使われ、成功するも、ヨーロッパでは(FFゆえか)一貫して不人気車だったそうです。(日本での導入期はバルブ景気期にあたり、流行りの”イタもん”として人気を博しましたが)
Alfa Romeo GTV
Alfa Romeo Spider