良質なオートバイのイベントに飢えていたE藤氏でしたが、浜松市博物館で開催された「ライラックの軌跡」展を観覧し、喉の渇きを癒して参りました。
ライラックを世に出した丸正自動車は、1950年から1967年まで静岡県浜松市に存在したオートバイメーカーです。創業者の伊藤正(まさし)は、本田宗一郎率いるアート商会浜松支店(後にピストンリングの生産を行う東海精機となる)の元従業員で、宗一郎とは子弟関係にありました。
丸正にもできないわけなどあろうものか
丸正自動車の前身となる丸正商会は、1938(昭和13)年に自動車整備工場として設立され、第2次大戦中は閉鎖されるも、1946年に操業を再開、自動車整備業と並行して戦後需要に沸いた二輪車の製造研究にも着手します。
1948年にオートバイの試作(タイガー号:後述)に成功、1950年に丸正自動車に改組し、1951年から「ライラックLB」(後述)の本格的な量産に乗り出します。この年の総販売台数は496台、淘汰前で玉石混合、百を超えるメーカーが存在していた中、ホンダ、メグロ、昌和、新明和、陸王、ミヤタに次ぐ「国内7位」となります。翌52年、「ライラックLC」(後述)を追加、総販売台数を一気に5倍弱の2,443台とし、「国内4位」に台頭。1953年には、「ベビーライラック」(後述)が大ヒットし、販売台数はさらに2.6倍の6,435台を記録。ホンダ、トーハツに次ぐ「国内3位」の座にまで上りつめます。(この年の3月、丸正は、すでに東京進出を果たしていたホンダを追って、本社機能を浜松から東京に移しています。)
順調に成長していた販売台数は、1955年には8,091台、1956年の10,000台超えをピークに、1957、58年は再び8,000台超に落ち込み始めます。トップを走るホンダの1958年はカブのデビュー年で、カブだけで2万4000台以上を生産しています。後から追い上げてきたヤマハ(55年オートバイ生産開始)やスズキ(53年同)にも捲くられ、あっという間に「国内8位」に・・・すなわち、メーカー淘汰の進む中、いずれ確実に消滅する立ち位置に甘んじるようになります。
そのような厳しい状況の中、丸正が「生き残り」に必要な資金を取引銀行に求めると、(丸正の4スト技術を欲する)スズキの傘下に入ることを融資条件とされます。社主・伊藤はそれを断り、新型スクーター、「AS71」(後述)を、旧態化したシルバーピジョンの販売低迷に悩んでいた新三菱重工業にOEM供給を行うことで望みをつなぎます。1960年、社運を賭けて三菱向けAS71の生産設備に多額の投資を行いますが、これが捕らぬ狸の皮算用に終わり、資本金1億8千万円に対し負債額17億円の債務超過に陥り、1961年10月、ついに丸正は倒産に至ります。
倒産後、幸いにも師匠筋であるホンダの厚意があり、丸正は会社更生の道を歩むことになりますが、決してホンダの軍門に下ることなく、今度は大胆にも大型バイク(BMWのコピー)の対米輸出で一発逆転を図ろうとします・・・さて、どうなることでしょうか?
丸正は全車のファイナルにシャフト駆動を採用するなど、技術力のあるメーカーと評価されていた一方、常に営業力の億弱さを指摘されていました。また実のところ、世に出したバイクほとんど全てに、明確な元ネタが存在し、残念ながら製品開発上のオリジナリティは、極めて不足していたと言わざるを得ません。(丸正が潰れなかったら、今頃は・・・と夢想する人がおられますが、丸正の倒産は必然だったといえましょう)
以下の表は丸正の生産したバイクを年次、排気量、モデルを軸に分類したものです。丸正には大きく3つの時代が見受けられます。(1)初期から中期にかけての単気筒の時代、(2)倒産前のV型2気筒の時代、(3)倒産後・会社更生時期の水平対向2気筒の時代です。
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タイガー号 (1948年頃)
試作、習作の域を出るものではありませんでしたが、なんでも作れば売れた時代、製作されたすべて(一説には6台)が顧客に売り渡され、実車は現存しておらず、詳細が分かっておりません。
当時のチェーンの品質はまだまだ誉められたものではなく、頻繁に起きる外れる・切れるといったトラブルに対応するため、タイガーにはベルト駆動が採用されましたが、実際のところ、チェーンを凌ぐ品質レベルにはなかったようです。
ライラック ML (1950) (150cc)
タイガー号でベルトはチェーンを凌ぐものではないと分かると、その次作となるライラックMLよりシャフトドライブが採用されます。以後、シャフトドライブはライラックを象徴する機構となります。
1950年に少量造られたMLは、サイドバルブエンジン、2速オートマチックミッションの仕様でした。
MLは、前年に登場したホンダ初の市販オートバイ、ドリームD型を強く意識したものと思われます。(ただし、ドリームD型はオーソドックスなチェーン駆動で、さらに丸正が望むも得られなかったOHVヘッドを持っていました)
同じシャフト駆動のチュンダップKK200(ただしエンジンは2スト)とMLとの間に強い類似性があることを挙げる人も少なくありません。たしかに、以後のライラックにはドイツ車からの「拝借」が多いので、その目はこの時すでに、500m離れた並びに社屋があるホンダではなく、遠くドイツに向いていたのかもしれませんね。
丸正と「柴原自動車工業」の関係は不明ですが、一販売店と思われます。いかにも自社製品然として紛らわしい。
ライラック LB/LC (1951/1952) (150cc)
丸正初の量産車となったLBはMLベースに、念願のOHVヘッドを得て、2速マニュアルミッションと組み合わされました。LBに次ぐLCには、2速オートマチックミッションが採用されました。
1952 LC (150cc)
ライラック KD/KE/KH (1952/1953/1954) (150/200/250cc)
1952 KD (150cc)
1952年秋にデビューしたKDの特徴は、フレームを鋼板プレスからスチールパイプ製に変更したことと、プランジャー式リアサスペンションの装備したことの2点です。「絵」ではひとつのシリンダーからエキパイが2本出ていますが、実車でもそうだったのでしょうか?(KDの前後のモデルともエキパイは1本なんですが・・・)
KDでは150ccだった排気量は、200cc (KE)、250cc (KH)と順に上げられます。この排気量拡大は、小型免許で乗ることのできる軽二輪は4サイクル150cc(2サイクル100cc)までと決められていたものが、1952(昭和27)年に軽免許が制定され、4サイクル250cc(2サイクル150cc)まで運転できるようになったことに合わせたものです。
1953 KE (200cc)
ライラック SY (1954) (250cc)
KHの後継車。スポーティになったスタイリングが大きな変更点。
何を隠そう、このSYは、1955年11月に行われた伝説的なオートバイレース「第1回浅間高原レース」のライト級(250cc)優勝車となったSYZのベース車なのです。
1955 SY改SYZ
1955年11月の第1回が催された「浅間」は日本初の本格的オートバイレースで、あまたのオートバイメーカーが群雄割拠していた時代の頂上決戦の場でありました。
そこに参戦したメーカーは、有象無象の中でも技術と意欲に秀でたメーカーと見てよいと思われますが、そのうち、「ホンダ」、「ヤマハ」、「スズキ」の3メーカーのみが現在も残っています。
第1回を走るも消滅したメーカーは、本稿の主人公であるライラックの「丸正」、今でもよく知られた「メグロ」、「陸王」のほか、「エーブ自動車(エーブスター)」、「ツバサ(ツバサ号)」、「ミシマ軽発(ミシマ号)」、「みずほ自動車(キャブトン)」、「モナークモーター(モナーク)」、現在、自転車メーカーである「ミヤタ(アサヒ号)」、「山下工作所(パール号)」、「昌和製作所(クルーザー)」、「新明和興業(ポインター)」、「大東精機工業(DSK)」、「日本高速機関(ホスク)」、「八木車輛製作所(サンヨー)」、以上がその全てです。
コースには、全長19.2㎞の公道(ダート路面)が使われました。マン島TTレースを模して2台ずつ30秒間隔でスタートするスタイルを採用。また公道を使う配慮から、ラップタイムなどは発表されず、前車とのタイム差のみ明らかにされました。(2回目以降は2輪メーカーが費用を出し合って建設した1周9.351kmのクローズドコースを使用するようになります。建設費用の面で未だ路面はダートでした)
また、レースを主催したのはメーカーとその販社が集まった団体だったため、「国産オートバイの性能向上」をレース開催の名目にし、より性能に優れる外国製バイクの締め出しを正当化しています。さらに使用されるパーツはネジ一つからすべて国産品であることが規則に定められました。(外国製ベアリングの使用が判明し、入賞取り消しとなったメーカーがあります)
第1回の浅間に際し丸正は、ウルトラ・ライト級(125cc)にベビーライラックSF改SF3を、
ライト級(250cc)にはライラックSY改SYZを走らせました。
ホンダの下馬評高かったライト級で、SYZは見事優勝を果たします。ライダーは若冠16歳で無名だった伊藤史朗(ふみお)・・・そう、あの「幻のレーサー」伊藤史朗のデビュー・ウインです。ホンダは5秒差で2位でした。(SF3は最高7位)
子供のころから札付きのワルで周囲を悩ませていた伊藤史朗は、早い時期から作曲家の父親が所有するBSAを乗り回しておりました。見かねた父親がライラックを買い与えた頃には、史朗は街道筋のカミナリ族の中では知られた速さを誇るようになり、若干16歳の時、来るべき「浅間」に向けて組織されたライラックのワークスチームに参加します。年功序列からチームの末席にありました(が、その才能はダントツであったことはレースが終わるまで誰も分かっておりませんでした)。
実のところ、ライベルと比べて、さしたる優位点の無い・・・というよりも性能的に劣っていたライラックの勝利は、伊藤史朗の力によるところが全てであったといっても過言ではないでしょう。
浅間でのデビューウイン後、伊藤史朗はその類い稀なるライディングの才能が認められ、後にBMWやヤマハで世界GPにまで参戦し、輝かしい成績を残します。
伊藤の初めての海外遠征は1958年5月のUSカタリナGP、マシンはヤマハ・ワークスの「YD1」スクランブラー仕様でした。これはヤマハにとっても初の国際レースでしたが(5台参加で日本人ライダーは伊藤1名)、伊藤はマシントラブルから最後尾からのスタートになりながらも果敢な追い上げで6位に入賞しています。
1960年はBMWで世界GP初参戦を果たし、500ccで年間ランキング15位に、翌61年にはヤマハで世界GP参戦、250㏄で年間ランキング9位に収まります。
1963年はキャリアのピークにあって、ヤマハから出場した2月のデイトナ200マイル・250㏄クラスで優勝、4月のマレーシアGP・250㏄クラスでも優勝を果たした上に、世界GP 250ccクラスでは・・・出場したマン島(2位)、オランダ(2位)、ベルギ-(優勝)、日本(2位)の全てで入賞し、わずか4レ-スの成績で総合3位に入るという偉業を成し遂げます。
1963年4月5月合併号の表紙を飾る
(左から、伊藤光夫(50㏄スズキ)、
エルンスト・デグナー(125㏄スズキ)、
伊藤史朗(250㏄ヤマハ))
1963年のマン島TTレースをレポートしたニュースが残されている。
ゼッケン17は伊藤史朗車。
押し掛けスタート。
2位に入賞!
観客席からサインを求められ、応じる伊藤。
レセプションでトロフィーを授与される。
その一方、実績を残せば残すほど伊藤の悪行は目に余るほどに増長していきます。金、酒、女、クスリ、嘘、裏切り・・・新興メーカー・ヤマハの世界GPにおける初勝利を与えたライダーであったにも関わらず、長年ヤマハの歴史の中で黙殺された存在でありました。ヤマハに対する貢献を逆手にとって、現場のメカニックはおろか、重役陣にまで極端に傲慢不遜な態度で臨んだことから、誰からも蛇蝎のごとく嫌われていたのです。
徹頭徹尾「難あり」と評価される彼の性格・行動は、生まれついての彼の人格そのものであり、社会的実績に見合うように正されていくようなものではありませんでした。八重洲出版社長でMCFAJ創設者・酒井文人氏や、バルコム貿易支配人で彼にBMWのGPマシンを調達してやったヘルマン・リンナー氏といった、彼の才能に魅了されたゆえ致命的な人格に目をつぶってでも庇護していた者にすら、最終的には愛想を尽かされてしまいます。しまいには、銃刀法違反がらみで狂言自殺などしてみた末に、その場の勢いで海外逃亡を決め込み、レースシーンどころか日本からも永遠に姿を消すことになります。
レーサーとしての絶頂期から下り坂に入った頃、伊藤史朗は父親譲りの音楽的才能を活かして、2枚ほどレコードを出していますが、「歌手への転身は失敗した」と評されています。
ちなみに、めったにレース会場に顔を出さなかったといわれる本田宗一郎も、国内最大イベントとなる「浅間」には現地に出向いておりました。そのリザルトをその目でまじまじと見た宗一郎は激怒したそうです。(直情型の本田宗一郎が激怒するということは、手や物が飛ぶ、と同義でしょう)
大排気量の500ccと350ccクラスはホンダが制したものの、最も注目度が高く、市販車の営業成績に直結した250ccおよび125ccクラスでは勝てなかっただけでなく・・・内容的にも宗一郎の怒りの炎に油を注ぐものがそろっていました。
まず250ccクラスですが、優勝した丸正はホンダの弟子筋でありました。さらに125ccクラスでは、ホンダは2スト勢に完膚なきまで叩きのめされ8位に甘んじますが、1~4位を占めたヤマハは、その年初めにオートバイ生産を始めたばかりの、いわばポッと出にすぎなかったのです。(1954年の本田宗一郎によるマン島出場宣言の檄文は有名ですが、国内で惨敗しているのに世界を狙うなんて飯噴モノというのが、巷の評価であったことでしょう)
「又も栄冠に輝く」、「富士オートレースに続く」の文字が並びますが、これは7月に行われた「第3回富士登山レース」のことで、この時もヤマハのいない250ccクラスはホンダの圧勝でしたが、125ccクラスは「ポッと出」のヤマハに勝利をさらわれていたのでした。(1957年の第2回「浅間」では、125ccクラスのみならず、250ccクラスも優勝はヤマハでした。ええ、ヤマハのいない350ccクラスではホンダが勝ちましたが・・・)
ライラック UY/UY2 (1956/1957) (250cc)
1956 UY (250cc)
UYはSYのむき出しだったドライブシャフトにカバーを与え、外装を変更した改良版です。
1957 UY2 (250cc)
UYをパワーアップし、さらに新しい外装を与えたものがUY2です。
CY2/CY3 (1957/1958) (250cc)
ボトムリンク式サスペンションが採用されています。Fフェンダーが高い位置に固定されているのはそのため。
エンジン前部のポイントカバー内
OHVヘッド、シリンダー
3速マニュアル・トランスミッション
シャフトドライブ・ハウジング内部
ファイナルケース内部
ライラック FY5 (1958) (250cc)
スーパースター、長嶋茂雄を広告に起用しています。
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ライラック AQ/AQ2 (1955/1956) (125cc)
1954(昭和29)年の道交法改正で、それまで4サイクル90cc(2サイクル60cc)までだった原付区分が、原付一種(~50cc)と二種(51㏄~125cc)とされると、それに合わせた、ライラック初の125ccエンジン搭載車が登場します。それがAQです。
この吊り下げ式フレームの元ネタは・・・1953年に発表されたチュンダップ250プロトタイプと思われます。アールズフォークも頂戴しています。(ちなみにこのバイクは下でもう一回出てきます(笑))
1955 AQ Sankyu (125Ccc)
ライラック BR/BT (1957) (175cc/125cc)
AQの後継車がBT。BTの175cc版がBRです。
CYもそうであるように、この時期のライラックはボトムリンク式Fサスペンションを採用しています。
1957 BR (175cc)
BRが表紙となっている輸出用カタログ。
ライラック EN1/EN2 (1958) (125cc)
2ストエンジンを採用しています。
EN型の車体コンセプトは、同時期のニュー・ベビーライラックDP型に共通したものが感じられます。(DP型は、前作JF型の大ヒットに対し、経営を揺るがすほどの失敗作に終わりますが(後述))
続きます。
Cool website !
I am researching early Yamaha race bikes such as at Asama.
I have 1 of the 250cc YD-A machines.
Best Regards from England.
Richard Tracy
続編希望します。
肝心のVツイン・フラットツインの話、その後の正さん・溝渕さん・そしてライラックゆかりの人間模様「その後」も知りたいです。
追伸 そういえばヤマハで待望のフラットツインが出ましたね。
無人ヘリ用ですが。これをモトグッツィV35の車体に積めばライラックマグナム復活じゃね?って考えたのは私だけでしょうか
表題に1/4とあるようにこのシリーズは全4回となります。Vツイン、フラットツインの話も当然、準備してあります。
恐縮ですが、「その後」は予定しておりません。(溝渕氏の近況は動画が挙がっていますね)
https://www.youtube.com/watch?v=aGLCSeWH-t4
>追伸 そういえばヤマハで待望のフラットツインが
>出ましたね。無人ヘリ用ですが。これをモトグッツィ
>V35の車体に積めばライラックマグナム復活じゃね?
>って考えたのは私だけでしょうか
たぶん、そうでしょう(笑)
Hello.
Thank you very much for making this ‘2015/9 / 18-10 / 18 lilac trajectory (1/4)’!
Is there more to read about the later V twin and flat twin models? I am interested in Lilacs and learning about the company history.
I heard there was a race team that even travelled to other countries?
Kind regards, Andrew.
素晴らしい記事をありがとうございます。
父の古いアルバムに祖父のバイクに兄弟5人と跨る写真があり、その堂々ととした車体のバイクが何か知りたくなり、こちらのサイトに辿り着きました。
この記事から祖父のバイクは Lilac の KH 型である事が分かりました。
祖父は戦後に、このバイクにリヤカーを括り付け、30km 離れた街に野菜を売りに行って生計を立てたと聞いています。
とても生活は厳しかったと聞いていましたが、この時代に 250 cc という大排気?のバイクに乗っていたという事は、厳しい時代の中でも祖父はバイクが好きで乗っていたのだな、と思え、とても嬉しくなりました。
そして父も、私もバイクに乗ったのです。
このサイトで分かった事を父に話してやろうと思います。ありがとうございました。