続きです。
くるま
1/24 ホンダ N360
ハセガワ75周年の記念キットだそうです。
グーテンバーガー!!
セドリック・タクシー仕様。今は亡きイマイ(大滝?)の金型がアオシマの手に渡って、現行品として世に出ているんですね。素晴らしい。
「ラリーの日産」というフレーズ、とある20代のクルマ好きにとって、「なにそれ?」という反応でした。「それ(日産はラリーに力を入れていたメーカーであったこと)ってホントなんですか?」と言われてしまう始末。
日産バイオレット。サザンクロスラリー仕様?
ビヨン・ワルデガルドのサファリラリー車(1990年)でしょうか。
80年代半ばから始まったセリカによるWRC参戦、トヨタは脂が乗り切っていました。日産のお家芸、サファリのお株を完全に奪い、一時代を築いていたのですが・・・1995年、カタルーニャ・ラリーで吸気制限デバイスへの細工という不正が発覚。95年、96年の2シーズン、WRCを退場させられてしまいます。
WRCにおいて、レギュレーション破りと言う不正は枚挙にいとまがないのですが、その中でもトヨタの不正は「WRC史で最もあくどい(the most blatant)ケース」との評価が残されています。勢いのあったトヨタへの反感が噴出したという面がなかったわけではなかったのかも・・・
古のフジミ 1/20でしょうか・・・このラリーカーシリーズ、なかなか良い車種をラインアップしていましたねえ。
V6エンジンのフェラーリF1、ディーノです。ヒロ製レジンキットでしょうか?
このバカでかいアルファは、ポケールの1/8?
日本GP・生沢徹仕様のポルシェ910。タミヤの1/12かな?
ポルシェ917ルマン仕様。ヒロの超精巧1/12レジンキット。
1/12 ポルシェ956。これもヒロ製ですが、グループCカーブームの際、1/24の956を売りまくったタミヤは1/12でも956を企画していたそうです。何らかの理由で実現しませんでした。出しておけば、エバーグリーンの名作としてタミヤ史に残ったと思うのですが・・・
こちらは無理して出したおかげで、タミヤ史に残る不朽の名作となった934RSR。(資料用に実車の911を買ったというのは有名な逸話ですが、おかげで減価償却に相当の時間が掛かったとか)40年経った未だに現役の稼ぎ頭でしょう。
これらデキの良い以下4台はヒロのレジンキットでしょうか。
VW TYPE II キャンピング仕様。
シトロエン2CV ヴァン
シトロエンDS。1950年代の未来カー。
ボンド・バグ。1970年代の未来カー(嘘)
英国では、3輪車だとオートバイと同じ税金枠となり、さらにキットカーだと取得税かなにかの税金が割安になるので、その線を狙ったものです。ただ、バグはスタイルに凝り過ぎため、かなり高価となってしまい、商業的には大失敗。ボンド社消滅の直接的原因となりました。
古き佳きアメ車6台。
これも一種のアメ車。スポコン改。フラット4の代わりにV8が積まれています。
こちらのアメ車流はドイツとのハーフ。V8をフロントに積んだホットロッド。アメリカ人は、「ワーゲンはナチスが造ったクルマ」という事実を完全に忘れて、わが子のように愛しました。
シャパラル
石油王の御曹司という恵まれた立場と、世界最大の自動車メーカーGMから秘密裏に受けたバックアップとを駆使し、60年代のレースシーンを席巻した「ジム・ホール」は、コブラで知られたキャロル・シェルビーと同じテキサスの出身で、その活動時期もほぼ同じありました。
ジム・ホールが、レーサー兼レーシングチーム・オーナー、さらにはレーシングカー・コンストラクター・オーナーの3役を担いながら「シャパラル・カーズ」を運営したのは、名門カリフォルニア工科大を卒業して間もない20代半ばから35歳までという若さだったというのは、今更ながらの驚きです。
ジム・ホールが生み出した一連の独創性溢れる・・・というより「奇抜」といっていいマシン群は、シャパラルと名付けられ、誕生から50年経た現在でも世界中に熱狂的ファンが付いています。
ちなみにシャパラルとは、US南西部に生息する飛べない鳥の名称です。(飛べない代わりに、地面を相当な速さで走ることができます)
シャパラルは俗にロードランナーとも呼ばれています。そう、コヨーテとの追っかけっこで有名なアニメのロードランナーのモデルとなった鳥です。
エンブレムにロードランナーのシルエットが描かれています。
1961 シャパラル・1
記念すべきシャパラル第1号車は、マシン製作のスポンサーを探していたコンストラクター、トラウトマン&バーンズにジム・ホールが資金提供したことで生まれました。鋼管スペースフレームに5.2Lシボレー・スモールブロックV8を積むシャパラル・1は、奇抜さとは無縁の、軽量さを売りにする極めてオーソドックスなFR車でした。4台が製作され、うち3台がジム・ホールのチームで使用されました。
GMはこのシャパラル・1の活躍を見て、ジム・ホールに接近したと言われています。
シャパラル1は、トラウトマン&バーンズ・デザインのオーソドックスな60年代的流線形状を有していましたが、エアロダイナミクスに造詣のあったジム・ホールによって、カウルデザインは大胆に改変されていきます。
1960-63 Lotus 18/21/24
意外なことに、ジム・ホールにはF1参戦経験があります。ロータス製F1マシンを、あり余る個人資産で購入し、1960年、61年、62年の3年間に、USグランプリ1戦のみにスポット参戦しています。さらに63年になるとヨーロッパに渡り、BRP(British Racing Partnership)チームからフル参戦(全10戦中9戦に出走)を果たします。最高位は5位(フランスGP)、総合12位でシーズンを終えています。
1963-65 シャパラル・2A
2作目の2Aから、すでにレーシングカーで主流となっていたミッドシップが採用されます。まだ鋼管スペースフレームが当たり前の中、2Aには(パワーボート譲りの)FRP製モノコック・シャーシが採用され、早くも独創性を主張しています。(ボディ下部の茶色はFRPの色そのもの)
ごく初期のシャパラル2(2Cが世に出て、2Aとして区別するまで、単に2と呼ばれていました)は、末期のシャパラル1に似たカウルデザインでした。特徴的な形状のチンスポイラーは、高速時にノーズリフトが発生したため、GMの風洞実験を受けた上で取り付けられたとのことです。
2Aは、1964年シーズンに向けての改修で、シボレーのR&D部門から供給を受けた、オートマチック・トランスミッション(AT)と門外不出のアルミ製ブロックを持つスペシャル・エンジンを搭載しています。このスペシャルエンジンのエキゾーストは、8本独立して宙を向いていることでビジュアル的インパクトのあるものでした。(元祖竹ヤリ)また、ATはその後も一貫して使用され、シャパラルの象徴となります。
1964年シーズンのシャパラル・チームのもう一台、ロジャー・ペンスキー車はマニュアル・トランスミッションのままで、またエキゾーストパイプも一般的な集合タイプのままでした。
フェンダー上にルーバー、ボンネット上にエアダクトなどが追加された後期モデル。
2AのFRPシャーシは、1963年に2基、1964年には追加で1基、計3基が製作されます。1965年までCan-Amの前身となるUS国内のスポーツカーレース(USRRC)で使用された後は、世界耐久選手権むけ 2D (1966) および 2F (1967) に改装されています。
1963-64 シボレー・コルベット GS-II/GS-IIb
シャパラルには、なぜか2Bと命名された車がありません。これは長らくミステリーとされていましたが、今では、2Bに相当する車は、コルベットの先行開発車 Grand Sport IIb である、いうのが定説となっています。
シボレーのR&D部門で1963年に造られた GS-II はスチール製モノコックとFRPボディを持っておりました。翌64年にはモノコックの材質がアルミに置き換えられた GS-IIb となります。このGS-IIb用アルミモノコックがシャパラル2Cに転用されたいうことです。
1965 シャパラル・2C
上で書いたとおり、モノコック・シャーシをFRP製から GS-IIb 譲りのアルミ製に置き換えた車が、この2Cです。目的は軽量化で、50kgほどの減量に成功しています。ボディ後端に可動式スポイラー(フリッパー)を装備し、独創性を誇示しています。
このアルミ製シャーシは、1965年に1基、1966年に追加で1基、計2基製作され、 2C (1965)、2E (1966)、2G (1967-68)の3モデルに対し、4年という長きに渡り使用され続けます。
1966 シャパラル・2D
国内レースを席巻したシャパラルは、1966年から世界耐久選手権に、(フォードに倣って)ルマン24時間をメインターゲットとして参戦を開始します。2Dはそのために2Aをクローズドボディ化したものです。(2Cではなく2Aがベースになったのは、長距離レースのシャーシにはアルミよりもFRPの方が向いている判断されたのでしょう)2台が造られました。
2Dの開発途中でフリッパーの廃止、ヘッドライトの4灯化、インダクションボックスの設置などの変更が行われます。
実のところ、歴代シャパラルは奇抜さゆえか、レースでの完走率が低かった・・・特に耐久レースでは極めて低かったのですが、ルマンと同じ6月に開催され、その前哨戦となるニュルブルクリンク1000kmレースでは、ヨアキム・ボニエとフィル・ヒルが駆る2Dは予選2位を叩き出し、決勝でも2台のフェラーリ206Sを抑えて総合優勝を果たしています。
2Dは世界耐久選手権には全8戦参戦したうち、7戦でDNF(リタイヤ)、唯一の完走がこの優勝でした。喜びのあまり、ヒル(PH)とボニエ(JO)とがピットに残した落書きが有名です。
「Chaparral was here(シャパラル参上)」の後は「You better believe it(本当なんだよ)」と茶目っけたっぷりに続きます。第2次大戦のアメリカ軍人らで流行った落書き、「Kilroy was here(キルロイ参上)」のパロディなのでしょう。日本ではほとんど「族」同然の行為と非難されそうですが、これでもヒルは、フェラーリでルマンを3勝(1958/1961/1962年)、F1でも同じフェラーリでワールドチャンピオン(1964年・アメリカ人初)となっているビッグネームなのです。この時、ボニエは現役のF1ドライバーでした。
ニューズウイーク(1961年7月号)の表紙を飾っています。
続くルマン24時間レースは、フォードGT40 Mk.IIが宿敵フェラーリを完膚なきまで叩きのめし、1位から3位までを独占したことで後年まで語り継がれる年となりました。
前戦の優勝で勢いづいていたはずのシャパラルは、フォードとフェラーリの壮大な頂上決戦の脇で慎ましやかに走ったに過ぎず、ヒルとボニエのドライブで予選を総合10位で通過するも、
決勝では111ラップしたのち、オルタネーターの破損でリタイアを喫しています。
1966 シャパラル・2E
ジム・ホール一番のお気に入りで、もっともシャパラルらしい、といわれるのが2Eです。USRRCから発展したCan-Amシリーズを走りました。
サイドラジエターのためのコクピット左右のクーリング・ポッドと巨大な可動式ハイ・ウイングを特徴としています。(ハイ・ウイングはシャパラルとGMの関係者の連名で特許登録されています)シャーシは2c以来のアルミモノコックが選ばれています。
1967 シャパラル・2F
前年に続き、世界耐久選手権の参戦は継続されます。
2Fは2Dの改修版で、シャーシには2A、2D譲りのFRPモノコックが継承されましたが、2Eに倣って、サイドラジエター、ハイウイングが採用されるなど、見た目は大きく変わり、さらにエンジンも、5.2Lのスモールブロックに代わり、7Lのアルミ製ビッグブロックが採用されました。これで排気量は仮想敵GT40と肩を並べましたが、増大したパワーによるATのトラブルに悩まされ続けることになります。
1967年のルマン24時間は昨年に続き、物量にモノを言わせるフォードと逆襲に燃えるフェラーリの総力戦となりましたが、フェラーリは雪辱を果たせず、フォードGT40 Mk.IVが2台のフェラーリ330P4を抑えて総合優勝を果たしています。
シャパラルは2台の2Fをルマンに参戦させています。前年は様子見の意味合いもあったものの、本年は秘かに期するものがあったようです。
#7のフィル・ヒル/マイク・スペンス組の2Fは2日目の早朝まで上位を維持するも、結局、持病のATトラブルで225周でリタイアを喫しています。
1967-68 シャパラル・2G
2Eのスモールブロックを7Lビッグブロックに換装したモデルが2Gです。本来、1968年シーズンは次期モデル 2H が走る予定でしたが、開発が間に合わず、2G が2年連続で走ることになりました。
耐久レースを走った 2F 同様、ATトラブルに悩まされ、2年間で1勝もすることがでできませんでした。
さらに悪ことに、68年の最終戦ラスヴェガスではジム・ホールは自身のドライバー生命が絶たれるほどの大事故を起こしてしまいます。
1969 シャパラル・2H
すべての設計を一新したため、開発は遅れに遅れ、本来1968年シーズン用に準備されていたものが、レース・デビューは1969年シーズンまで待たれました。
空気抵抗を極力少なくするために、車高と車幅が極限まで詰められたウェッジシェイプ形状のボディは、従来のシャーシにかぶせる構造ではなく、モノコックの一部としてフレームと一体化された構造になっています。またそのウエッジシェイプ形状は空力的付加物なしで十分なダウンフォースを発すると考えられていましたが、結局、フリッパーが、さらには巨大なハイ・ウイングが装備されることになりました。
2Hは、コンセプトが奇抜すぎた上、持病のATトラブルによる機械的信頼性の低さも相まって、シャパラル史上最悪の失敗作となっています。(6戦にエントリーし、2回完走(4位と5位)、2回DNF(リタイヤ)、2回DNS(出走せず)の記録を残しています)
当初は下の構想スケッチに忠実に、ドライバーは完全にモノコックの中に入り込む構造でありましたが、ドライバーのジョン・サーティースに拒絶され、しぶしぶながらドライバーの頭がモノコックから外に出るよう手直しを受けました。この改装は2Hの空力特性をかなり悪くするものとなりました。
1970 シャパラル・2J
2Hで始まったイロモノ路線は次モデルでも継承されます。
2Jはスノーモービル用エンジンで駆動するリアの2つのファンを持ち、車体下部の空気を吸い出しダウンフォースを発生させています。これはシボレーR&D部門からの発案でした。ボディ横に「レキサン」(ポリカーボネートの一種)のステッカーが貼ってありますが、シャーシと路面との隙間を埋めるスカートの材料です。
その特異な機構から、2Jは「真空掃除機」とあだ名され、性能的アドバンテージがあることは明らかでしたが、さほど結果に恵まれず、4戦にエントリーして完走1回(6位)、2回DNF、1回DNS、ポールポジジョン2回で終わっています。翌年からファンの使用禁止が決定されると、シャパラルは70年一杯でCan-Amへの参戦を取り止めます。
特徴的なファンとスカートの形状が分かるショット。
フロントタイヤ側
2J登場から8年後の1978年、F1第8戦スウェーデンGPに、2J同様、後部にファンを持ったブラバム・BT46Bが登場します。ニキ・ラウダのドライブでデビュー戦で優勝するも、他チームからの抗議で、スウェーデンGPの優勝は認めるが即刻使用禁止との裁定を受けます。
PlayStation 用ゲームソフト「グランツーリスモ」で使用する「レギュレーションの枠にとらわれない地上最速のレーシングカー」という企画に応してレッドブルが発表した、架空のレーシングカー X2010、およびその発展型 X2011、X2014 は全て「ファン・カー」でありました。
働くクルマ
第44回 人形改造コンテスト
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銀賞
佳作
佳作
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1989 ランドクルーザー
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