日産ヘリテイジコレクション 市販車ほか(2/2)

続きです。(解説は「日産ヘリテイジ・コレクション」公式HPより引用しております)

こども自動車「ダットサン・ベビイ」


1965年5月5日、皇太子ご成婚の記念で横浜市郊外に開園した「こどもの国」のために、御料車を収めていた日産が、「こどもたちに本物の自動車交通教育を提供する」という目的のもと、「ダットサン・ベビイ」を設計・製造し、100台寄贈しました。同園内に長年保存されていた現存車1台を「こどもの国」開園50周年を機に再生したものが画像のクルマ。100のナンバーは100台目の意。

1933年 ダットサン12型フェートン

ダットサンとは、1914年(大正3年)に快進社が「ダット1号車」を製造したことに由来します。DAT(ダット)は快進社への出資者3人のイニシャルから取られ、DATの「息子」を意味する「DATSON」が生まれました。しかし、「SON」は「損」を連想させるため、発音が同じで太陽を意味する「DATSUN(ダットサン)」に改められ、昭和7年の10型から採用されました。ダットサンは、主に日産自動車の小型車に使われ、日本のみならず、海外でも親しまれるブランド名になりました。この12型は、日産自動車が創業した1933年(昭和8年)12月当時に製造されていた日産最古のモデルです。記念庫の中でもっとも古い年式の車です。フェートンとは、折りたたみ式の幌を持つ4人乗りのオープンカーの呼び名です。また、バスタブのような形状のボディも特徴です。

1936年 ダットサン15型フェートン

1936年(昭和11年)5月に登場したダットサン15型フェートンです。フェートンとは、4人乗りセダンを幌付きにした仕様です。搭載エンジンは1935年に登場した14型と同じ722cc(7型)で、排気量こそ同じですが、圧縮比を5.2から5.4に上げることで、16馬力と1馬力向上させています。現在でこそクルマにとって1馬力は大きなパワーアップには感じられないかもしれませんが、当時では着実な進化といえるものです。エクステリアでは、ラジエーターグリルの左上に角型のDATSUNバッジが付いたのが15型の特徴ですが、このクルマでは残念ながら欠品となっています。さらに、ボンネット真横にあるルーバーのデザインも14型のシンプルな縦縞のものから、5つ連なるような横長形状のデザインに変わっています。

1937年 80型バン

1937年(昭和12年)3月の、70型乗用車から「ニッサン」ブランドの生産が始まりました。当時、自動車先進国であったアメリカのグラハム・ページ社から設備などの譲渡を受けてスタート。ニッサン バンも、「ニッサン」ブランドの最初の1台に入ります。このクルマは商品搬送用として三越百貨店が使用していた個体で、驚くことに、1937(昭和12)年から1965(昭和40)年頃まで現役でした。タフな作りと実用性の高さを証明しています。搭載されていたエンジンは、3670cc・85馬力の直列6気筒で、必要十分なパワーとトルクを備えていました。また、日本初のセミキャブオーバースタイルも好評で、バスやトラックがセミキャブオーバースタイルになる先駆けといえる存在です。

1938年 (右)ダットサン17型セダン

戦時色が濃くなりつつある1938年(昭和13年)にデビューを果たしたダットサン17型は、タフで経済性に優れ、日本中で大いに活躍しました。当時のカタログにも「国民標準経済車」と謳い、燃費の良いことを説明していました。エクステリアデザインは、前年に登場したダットサン16型を踏襲しています。フロントグリル中央を貫くように、太めの縦バーが入っているのが特徴です。純綿や純毛が不足していた時代背景もあり、インテリアはシンプルに仕上げられています。搭載されるエンジンは、サイドバルブ(SV)の722ccで、16馬力という最高出力も16型と同数値です。この年はドイツで初の国民車となるフォルクスワーゲン・ビートルが誕生しており、当時の先進国では、第二次大戦前のモータリゼーションが高まりつつある状況にありました。

1938年 (左)ダットサン 17型 フェートン

このクルマは、4座席に幌屋根を持つフェートンで、成城大学自動車部で使用され、1974年の文化祭を目標に同大でレストアされたクルマです。

1947年 たま 電気自動車

「たま」は、戦前の立川飛行機から派生した「東京電気自動車」が開発した電気自動車です。このクルマが登場した1947(昭和22)年当時の日本は、終戦直後で物資や食糧だけでなく、深刻な石油不足に見舞われていた一方で、家庭電化製品はまだほとんどなく、工場も破壊されて大口電力需要者もいなかったため電力の供給は余剰気味でした。この状況下で政府も電気自動車の生産を奨励したため、市場には新興自動車メーカーの電気自動車が多数存在しました。その中で「たま」は、第1回電気自動車性能試験でカタログ性能を上回る航続距離96㎞、最高速度35㎞/hというトップの性能を記録して注目を集め、1951(昭和26)年頃までタクシーなどで重宝されました。型式名E4S-47 I型は、 Eは電気、4S は4人乗りセダン、47は年式、I型は初期型の意です。なお、「たま」のブランド名は工場のあった多摩地区から命名され、ホイールキャップにも「たま」の文字をかたどったロゴが読み取れます。電気自動車(EV)が終戦直後の日本の道を走り、日本の復興に一役買っていた事実からも、EVの意外な歴史の重みを感じます。2010年、電気自動車LEAFの発表に合わせて社内の有志によってフルレストアされ走行することも可能になりました。

1947年 たま トラック (ガソリンエンジン仕様)

たまトラックは、セダンとともに1947(昭和22)年にデビューしました。型式E0T-47II型の読みは「イー・ゼロ・ティー・ヨンナナ・二ガタ」で、E は電気自動車、0は0.5t積み、T はトラック、47は年式、IIはマイナーチェンジ後を示します。 セダンは4名定員でしたが、トラックである貨物車は多くの荷物を載せるカーゴスペースがあるぶん、キャビンは2人乗りです。このガソリンエンジン仕様車は、朝鮮戦争により鉛の価格が高騰しバッテリーの価格も高騰、入手困難となり、一方ガソリンは、統制が解除され、市場で入手可能になったため、のちにガソリンエンジン仕様に改修されたものです。直列4気筒の760ccエンジンを搭載。最大積載量は500kg。大きなフロントライトが目を惹く愛くるしいフロントマスクは、セダンと同じです。

1947年 ダットサントラック 2225型

ダットサンピックアップトラックは、戦前の1935年(昭和10年)に登場した14型のころからラインナップされていました。1943年(昭和18年)に戦争の影響もあって、いったん生産が終了します。1946(昭和21)年、戦前型をベースとした1121型を2代目モデルとして発売して戦後の再スタートを切りました。この2225型は、1947年(昭和22年)に登場した2124型を改良したモデルです。搭載されたエンジンは722ccの直列4気筒SV(7型)で、600kgの荷物が積載可能で、乗車定員は2名でした。2225型が登場した当時は、終戦直後であったため、あらゆる物資が不足していました。その為、その頃の車両には物資不足を補うために複雑な加工を避けるだけでなく、ボディの一部を木製にするといった苦労の跡が見られます。

1950年 ダットサン消防車

1950年(昭和25年)に登場したダットサントラック4146型をベースに作られた消防車で、Fire(火)を表すFを追加し、F4146型と表示されます。消防車のほかに、バンタイプの救急車も用意されていました。小柄な車体を生かして、狭い道にも入ることができました。また、ダットサントラック伝統の燃費のよさも誇りました。

1953年 オースチンA40 サマーセットサルーン

戦後は、GHQ により乗用車生産が制限されていましたが、1949(昭和24)年10月に解禁を迎えます。日産は、1952(昭和27)年に技術的な遅れを取り戻す目的で英国のオースチン社と技術提携を締結しますが、オースチン社を選んだ理由は、日本の国情に合う小型車の開発に長けていたこと、当時の米国市場で優位だったことが挙げられます。翌1953(昭和28)年4月4日には早くも日産製の「A40 サマーセットサルーン」1号車が鶴見にあったオースチン工場でオフラインし、5月8日には都内で通産大臣や駐日英国大使を招いての記念発表会を実施しました。このクルマは、オフライン1号車そのものです。

1953年 ダットサントラック 6147型

ピックアップトラックのダットサントラックは、ダットサン車の始まりにあたる1932年(昭和7年)のダットサン10型のころよりラインアップされていました。カタログに登場したのは14型からで、15型からはトラックを表すTを加えて15T型と表示されるようになりました。戦前の設計に準じた戦後型は、1946年(昭和21年)デビューの1121型から始まり、小変更を繰り返しながら1954年(昭和29年)いっぱいまで生産が続き、小口輸送の側面から日本の戦後復興を支えました。このクルマはその最終型にあたる1953年(昭和28)年の6147型で、最高速度は72km/h、最大積載量は600kgでした。ダットサントラックはその後まもなく、新設計の120型トラックへ引き継がれます。

1953年 ダットサン デラックスセダン

戦後初の乗用車であるダットサン・スタンダードセダン(DA型)のバトンを受け、1948年(昭和23年)3月に登場したデラックスセダン(DB型)です。スタンダードセダン(DA型)は、シャシーやエンジンは戦前の設計を引き継ぎ、ボディのみ生産しやすいように直線基調のデザインに変更していました。このデラックスセダン(DB型)は、シャシーこそDA 型と同様の形式ですが、ボディを当時の米国車風なスタイルに一新しています。デビュー当初は、エンジンもDA型と同じ722ccでしたが、1950年(昭和25年)9月登場のDB-2型になると、シャシーを補強し、860cc・20馬力に排気量を拡大。さらに、1953年(昭和28年)2月登場のDB-5型では、24馬力までパワーアップされました。

1954年 プリンス セダン デラックス

日産自動車は1966年(昭和41年)にプリンス自動車工業と合併しますが、プリンス自動車工業の前身である「たま自動車株式会社」が、富士精密工業のエンジンを利用して発売したのが「プリンス セダン」で、1952年(昭和27年)3月に発表されました。車名の「プリンス」は、明仁親王殿下(今上天皇)の立太子の礼にちなんで命名されたもので、その後も社名やブランド名として引き継がれました。エンジン型式のFG4Aは、F:富士精密、G:ガソリンエンジン、4:4気筒、A:最初の開発を表します。最高出力は45馬力、最大トルクは10kg-mで、4速MTを搭載し、2速以上は国産車では初となるシンクロ機構付きでした。1954年(昭和29年)、東京日比谷で開かれた第1回全日本自動車ショウ(後の東京モーターショー)で、明仁親王殿下の目にとまり、ご購入。このクルマは、明仁親王殿下がご愛用になった、極めて貴重な車両です。

1959年 オースチンA50 ケンブリッジサルーン

戦後、乗用車の生産が全面的に解除されたのは1949年(昭和24年)10月のことでした。時間的にはわずか4年の中断とはいえ、日本の自動車産業にとっては大きな痛手となりました。そこで、政府は将来を見据えて海外メーカーとの技術提携を結び、生産や設備に関する技術やノウハウを吸収することを奨励しました。日産は、1952(昭和27)年に英国のオースチン社と技術提携し、年間 2000台分の乗用車部品を輸入して日本での組立を開始します。1953(昭和28)年のA40型組立開始当初の国産部品はガラス・バッテリー・タイヤなどわずかでしたが、徐々に国産化が進み、1955(昭和30)年から生産を行ったA50型では初期から国内調達部品が200点以上を数え、ついに翌年8月には全部品が日本製となりました。搭載される 直列4気筒OHVエンジンの最高出力は57馬力で、最高速度130㎞ /h をマークしました。このクルマは、提携で習得した技術の集大成で、1959(昭和34)年12月28日に製造された最終オフライン車です。

1960年 スカイライン スポーツ

デザイン先進国イタリアの著名デザイナー、ジョバンニ・ミケロッティのスタイリングによるスカイライン スポーツは、1960年、本場イタリアのトリノ国際自動車ショーでデビューしました。従来の国産車には全くなかった高級スポーツクーペで、イタリアのデザインを採用した初の国産車としても知られます。 このクルマは、イタリアの工房で作成され、トリノショーに出品されたショーカーそのものです。生産車とは異なり、インサイドミラーには、1960年のローマオリンピックを記念した五輪マークが刻印されています。それ以外にもグリルのバッジやエンブレム等、生産型とは微妙な差がみられます。ショーにはこの青のクーペの他に、白のコンパーチブルも展示されました。エンジンとシャシーはグロリア用を流用し、1862cc の直列4気筒は94馬力を発生しました。

1960年 ブルーバード 1200デラックス

ラリーで鍛えられ、海外へも輸出されたダットサン(210型系)の後継車として、1959年(昭和34年)8月にダットサン310型が誕生しました。このクルマから初めておなじみの「ブルーバード」という愛称がつけられます。このクルマは、1960年(昭和35年)10月に発売された改良型の 311型で、強化されたE1型1189ccエンジン(55馬力)を搭載し、変速機がフルシンクロとなりました。保存されている本車両は、全国一周キャンペーンに使われた車両で、ボディに書き込まれているのは、全国都道府県の徽章と知事のサインです。

1961年 フェアレディ SPL213

1960年(昭和35年)1月から本格的に北米輸出が開始されたフェアレディ(SPL212型)は、小型スポーツカーとして自動車先進国であったアメリカで一定の評価を獲得しました。そして、同年10月SPL213型へとマイナーチェンジを受けます。搭載エンジンはSPL212と同じ1189ccでしたが、圧縮比を7.5から8.2に変更するなどのチューニングが施され、48馬力から55馬力へとパワーアップを果たしました。生産台数は、212と合わせシリーズとして500台程度という貴重なモデルです。記念車は、美しい曲線を描くモールで分割された赤と白のツートンカラーのエクステリアがとてもおしゃれなSPL213(「L」はLeft handle、左ハンドルを表すアルファベット)です。

1961年 ジュニア 消防車

ジュニアは、小型商用車のダットサントラックと(120系)と、大型のニッサントラック(580型)の中間的存在として、1956(昭和31)年10月に初代・B40型が誕生しました。1958年(昭和33年)のマイナーチェンジで、50馬力だった出力は、57馬力に強化され、B42型となりました。B42型には、「Fire」のFを冠し、国家消防本部B2規格認定の消防車仕様「FB42型」も併せて設定されました。1960年(昭和35年)、フルモデルチェンジによりジュニアはB140型となり、消防車仕様もFRB140型と新型になりました。エンジンは3956cc125馬力と2倍以上に強化されました。また、エンジンをポンプの動力と使用する際の、全開に近い115馬力の連続運転に備え、冷却水補助クーラーやオイルクーラーも装備していました。このクルマはFRB140型で名古屋市の有松消防団で使用された車両です。

1960年代? キャブライト消防車

1963年 キャブオール

1957(昭和32)年、国産初の本格的キャブオーバー型トラックとして誕生したのがC40型ニッサンジュニアキャブオールです。1.5L・50馬力のエンジン出力は、翌1958(昭和33)年には57馬力へ向上して型式がC42型になり、1959(昭和34)年には3人乗りのC43型に進化。1960(昭和35)年には、71馬力と大幅に出力向上したC140型となりました。1962(昭和37)年にエンジンが1.9Lに拡大され85馬力となって型式がC141型となり、1963(昭和38)年にはヘッドランプとウインカーが一体となった新デザインへ移行します。4610㎜の全長ながら、小型車並みの最少回転半径(5.3m)による取り回し性能、クラス唯一のトーションバー式スタピライザーによる乗り心地の良さなどが好評でした。このクルマは1963年のC141型です。

1964年 セドリック スペシャル

東京オリンピック前後の1960年代、日本は高度経済成長期でまだ多くの人にとって自動車は憧れの対象でしたが、モータリゼーションは着実に高まりつつありました。そんな時期に登場したのがセドリックです。このスペシャルは、1963(昭和38)年に発売された国産初の本格的な大型乗用車で、デビュー前年の昭和37(1962)年、第9回全日本自動車ショーに出展されて話題を集めました。2825㏄の直列 6気筒OHV エンジン(K 型)は115馬力を発生し、大型乗用車にふさわしい動力性能を誇りました。ボディも堂々たるサイズで、当時のメルセデス・ベンツ220S と肩を並べる2835㎜のホイールベースで、広大な車内空間を確保していました。この50型セドリックスペシャルは、プレジデント(150型)へと引き継がれることになります。このクルマは、1964年に開催された東京オリンピックにおいて、聖火搬送車の大役を務めたクルマです。

1966年 ダットサン 1300 バン

1965(昭和40)年5月発売のダットサン520型バンは、最高出力62馬力・最大トルク10kgm を発生する1.3LのJ 型エンジンを搭載し、最高速度も先代320型の105km/h から120km/hへと一気にアップし、長距離や高速の移動でも余裕のある走りを実現しました。全幅55㎜拡大により、室内も乗車定員が2名から3名となり、居住性を向上させています。もともと410型ブルーバードと共通の雰囲気をもつボディは、翌1966年のマイナーチェンジで丸型4灯のヘッドライトに変更し、ますますブルーバード風に近づきました。4速MTもフルシンクロ化し、同時に「デラックス」と「スタンダード」の2グレード構成になりました。このクルマは1966年のマイナーチェンジ後の「デラックス」です。

1966年 キャブライト 1150

1964年(昭和39年)3月にフルモデルチェンジを実施し、3代目(A220)となったキャブライトは、1046ccから1136ccに排気量をアップするなどして商品力を向上させました。キャブライトは1958年(昭和33年)の初代(A20型)登場以来、車名どおりの小型商用車としてダットサントラックとともに親しまれました。1961年(昭和36年)には2代目のA120型になり、3代目(A220)まで続きました。このクルマは、1966年にマイナーチェンジを受けたA221型です。なお、1968年(昭和43年)10月、3度目のフルモデルチェンジを迎えたキャブライトは、その名をキャブスター(A320)と変え新モデルに生まれ変わりました。

1967年 ブルーバード エステートワゴン

2代目ブルーバード・410型は、4ドアセダンとワゴンが1963(昭和38)年に同時発売され、ワゴンのエンジンは1200cc のE 型のみが用意されていました。 1965年(昭和40年)5月のマイナーチェンジで411型となり、55馬力・1200ccのE型エンジンは、62馬力・1300ccのJ型に変更され、高速走行性能が大きく向上しました。1966年(昭和41年)にも、マイナーチェンジが行われ、賛否両論のあった尻下がりのボディ形状を改めるデザイン変更が行われています。このマイナーチェンジでは1300バンの追加もありました。このクルマは、1966年のマイナーチェンジを経た最終型のエステートワゴンです。

1968年 サニー 1000 スポーツデラックス

1966年(昭和41年)4月に誕生した初代サニーは、開発主査を務めた園田善三をはじめ、若手が開発の中心を担いました。搭載されたOHVのA型エンジンは988ccから56馬力を発生し、直線基調のスポーティなスタイル、SS1/4マイル20.6秒、最高速度 135km/hの高性能が幅広いユーザーを獲得しました。翌1967年4月には、4ドアセダンが発売され、4速マニュアル・フロアシフトのスポーツ・シリーズとクラス初の3速オートマチック車が追加されました。同年7月のマイナーチェンジではフロントグリルのデザインが変更されました。 のちにはトラックやクーペが追加されてワイドバリエーション化し、日産を代表する人気モデルへと成長しました。このクルマはスポーツデラックス仕様です。

1968年 ブルーバード1300

このブルーバードは、メキシコ日産・クエルナバカ工場で生産された左ハンドルのPL411型で、型式名のLは左ハンドルを示しています。1966(昭和41)年4月以降の411型は、初期の410型とはリヤフェンダーなどのデザインが大きく変更されました。 また、本車は1968年のメキシコオリンピックで公式車として日本選手団に提供されたため、選手のサインが残されています。なお、メキシコ五輪では男子体操、レスリング、重量挙げなどで大健闘を見せ、金11、銀7、銅7のメダルを獲得。中でも男子サッカーの銅メダルは、現在でもよく知られているところです。

1968年 ローレル デラックスB

初代ローレル(C30型)は、1968年(昭和43)4月にデビュー。「ハイオーナーカー」の先駆けとして、ブルーバードとセドリックの間を埋める車種として開発されました。セダンが単に排気量やボディサイズだけで分類される時代から、ライフスタイルやボディスタイル、コンセプトなどで差別化する時代の扉を開いたモデルです。直列4気筒SOHCの1815ccエンジンは、グロリアやスカイラインなどでも積まれた新開発のG18型です。サスペンションはブルーバードと同様で、前がストラット、後がセミトレーリングアームを搭載。2年後の1970年(昭和45)6月には、日産初のピラーレスハードトップである2ドアハードトップモデルと2000ccのG20エンジンが追加されました。

1969年 ブルーバード1600デラックス

3代目ブルーバードの510型は、1967年(昭和42年)8月に発売されるや否や、シャープなスタイリングやOHCエンジン、4輪独立懸架などの高度なメカニズムがもたらす高い基本性能と実用性が大好評となり、グローバル販売累計台数150万台以上を記録する大ヒットとなりました。今もなお多くのファンから「ゴーイチマル」ないし「ファイブ・テン」の型式名で親しまれています。1970年(昭和45年)の「1600SSS」による第18回東アフリカ・サファリラリー総合優勝などでモータースポーツの世界でも高い評価を獲得し、このクラスの性能基準を塗り替えたとさえ評されました。このクルマは、92馬力のL16型シングルキャブ仕様エンジンを搭載した1600デラックスです。

1970年 チェリー 2ドア デラックス

初代チェリーは、1970年(昭和45年)に日産初のFF(フロントエンジン・フロントドライブ)モデルとしてデビュー。車名の「チェリー」は、日本らしさを訴求するため「桜」から命名されました。当時の小型車は、世界的にFR(フロントエンジン・リヤドライブ)からFF への移行が進みましたが、小さなボディサイズでも広い室内を確保できるのがその最大の理由で、チェリーの場合は、当時のスカイライン1500(S50系)と同等の広さを誇りました。エクステリアでは個性的なアイラインウインドウ(ウエストラインからC ピラーへのライン)が特徴で、ボディ全体のデザインをカプセルシェイプと呼んでいました。スタンダード・セミデラックス・デラックス・GL・X-1の5グレードがあり、登場時の2ドア・4ドアセダンに加えて、1971年9月にはクーペが加わりました。このクルマは、2ドアの豪華仕様、デラックスグレードです。

1970年 チェリー X-1

初代チェリーは、1970年(昭和45年)に日産初のFF(フロントエンジン・フロントドライブ)モデルとしてデビュー。車名の「チェリー」は、日本らしさを訴求するため「桜」から命名されました。当時の小型車は、世界的にFR(フロントエンジン・リヤドライブ)からFF への移行が進みましたが、小さなボディサイズでも広い室内を確保できるのがその最大の理由した。エクステリアでは、個性的なアイラインウインドウ(ウエストラインからC ピラーへのライン)が特徴でした。スタンダード・セミデラックス・デラックス・GL・X-1の5グレードがあり、登場時の2ドア・4ドアセダンに加えて、1971年9月にはクーペが加わりました。このクルマは、SU ツインキャブ付きのA12型・80馬力エンジンで、670kg の軽量ボディを強力に加速させる、ホットモデルのX-1です。

1972年 スカイライン ハードトップ 2000GT-X

1968年(昭和43年)の8月、スカイラインはフルモデルチェンジを行い、3代目となるC10型に生まれ変わりました。C10型は、日産自動車とプリンス自動車工業の合併後初のスカイラインということで、大きな注目を集めました。初期には1.5Lと2Lエンジンの4ドアセダン、1.5Lのワゴン/バンで構成されていましたが、超高性能版の「2000GT-R」や1.8Lエンジンを加えて徐々にワイドバリエーション化。1970(昭和45)年にはホイールベースを70mm短縮したスタイリッシュな2ドアハードトップシリーズも加わりました。さらに、翌年9月には、2000 GT の上位モデルとして、SU ツインキャブで130馬力にまでパワーアップした2000GT-Xを追加。走りのスカイラインの実力を、さらに高めると同時に、当時はまだ珍しかったパワーウインドウなどの豪華装備でも人気を呼びました。このクルマは1972年の2000GT-X仕様で、そのGTバッジは、金/白が用いられていました。

1972年 パトロール

2代目パトロール(60型)は、1960年の登場から、サファリ(160型)がデビューする1980年までの20年間生産された息の長いモデルでした。1951年(昭和26年)に誕生したニッサンパトロール(4W60型)から、サファリへとつながる4WDモデルです。梯子形フレームに前後共にリーフ・リジッドサスペンションという、堅牢設計は先代から引き継がれたもので、そのパートタイム4輪駆動システムは、レバー操作で2輪駆動に切り替えることができました。ホイールベースが2200mmのショートボディと、2500mmのロングボディがあり、ソフトトップ、ハードトップ、バン・ワゴンと多くのバリエーションがありました。パトロールベースの消防車も用意されており、いまでも数多くのクルマが現存しています。パトロールという名称は、海外向け車名として現在でも使われており、創立以来の「ピックアップ」を別とすれば、日産車の中で最も長く引き継がれている車名です。このクルマはショートボディーのソフトトップ仕様です

1972年 フェアレディ240ZG ハイウェイパトロールカー

初代フェアレディZ(S30型)は、それまでのダットサンフェアレディ2000(SR311型)の後継車として開発され、1969年(昭和44年)12月にリリースされました。クローズドボディの採用で居住性、安全性が向上したフェアレディZは、高性能エンジンや4輪独立懸架サスペンションなどにより好評を博し、北米などの海外でも爆発的ヒットとなりました。 デビュー当初は2000ccのみの設定でしたが、2年後の1971年(昭和46年)11月に2400ccエンジンを搭載した「240Z」が登場。搭載エンジンは、北米向け輸出モデルと共通の2400cc・150馬力のL24型で、「240Z(115万円)」、「240Z-L(135万円)」、「240ZG(150万円)」の3タイプを用意。シリーズ最上位となる「240ZG」は、ロングノーズ(エアロダイナ・ノーズ:Gノーズ)、オーバーフェンダー、リヤスポイラーなどを装備し、空力特性の向上も加わり最高速度は日本車トップの210km/hを誇りました。 このクルマは、1972年( 昭和47年)3月から神奈川県警察高速道路交通警察隊のパトロールカーとして活躍した240ZGです。総走行距離は37万940kmに達し、パトカーならではの特別仕様として、サイレンや赤色回転灯、ストップ機構付速度計や無線機などを装備しています。

1975年 ローレル 2000SGX

1972年(昭和47年)4月にデビューした2代目ローレル(基本型式C130型)は、ハイオーナーカーのコンセプトを継承しつつ、70年代を象徴するにふさわしい、「豪華さと高品質を誇り得るクルマ」として登場しました。エクステリアは、サンダーストリームと名付けられたシャープなふくらみが特徴でした。また「ゆっくり走ろう・ゆっくり生きよう」というキャッチコピーもローレルのゆとりを表す特徴的なメッセージでした。ボディは4ドアセダンと2ドアハードトップを設定。セダンには耐久性に優れたリーフリッジットサスペンション、ハードトップには操縦性に優れたセミトレーリングサスペンションが設定されました。エンジンは直列4気筒のG18型とG20型、直列6気筒のL20型が設定されました。2000SGX にはL20型にSU ツインキャブでハイオクガソリン仕様の130馬力、レギュラーガソリン仕様の125馬力があり、このクルマはレギュラーガソリン仕様です

1977年 セドリック 2800SGL

高級車・セドリックの4代目として、1975年(昭和50年)6月に330型系が発売されました。重厚でフォーマルな4ドアセダンのほかに、2ドアと4ドアのハードトップも用意されました。このクルマは、直列6気筒OHC・2753ccのL28型エンジン(最高出力140馬力)を搭載した1977年式(昭和52年)でP331型で、通常のモデルと少し変わった外観なのは、朝日新聞社が同年、アジアハイウェー1号線(A1ルート)沿線の文化・経済や人々の生活を紹介する連載記事を掲載するための取材車として、ワークスラリー車同様、追浜の特殊車両実験課で改修され、取材で使用された車両そのものだからです。トルコのイスタンブールとベトナムのサイゴンを結ぶ、2万3000kmもの長大な現代のシルクロードともいえる道を、取材活動をこなしながら85日間をかけて、無事に全行程を走破しました。

1977年 フェアレディ Z-T

初代フェアレディZ(S30型系)は、1969年(昭和44年)10月に発表、翌11月から発売されました。アメリカで大好評を博し、日本を代表する2人乗りスポーツカーとしても、当初から高い評価を獲得しました。北米市場に先行投入していた2400cc モデルの240Z シリーズを1971(昭和46)年11月に国内でも発売し、1974(昭和49)年1月には、ホイールベースを延長して後席を設けた4人乗りの2/2を加えました。さらに、1976年(昭和51年)7月には、電子制御燃料供給装置・EGIなどで排気ガス規制に適合したS31型へ進化しました。このクルマは、アルミロードホイール、195/70HR14タイヤ、リモコン式フェンダーミラーなどを標準装備した最上級のZ-T 仕様です。

1978年 パトロール 消防車

1951年(昭和26年)発売の初代パトロール(4W60系)の時代から、パトロールを利用した消防車は、信頼性を評価され活躍しました。1960年( 昭和35年)にモデルチェンジし2代目(60系)となった消防車仕様は、ホイールベース2500mm(ショート)のFG60系と、2800mm(ロング)のFH60系が設定され、FH60系には後輪2輪駆動のFHN60型も設定されました。 ヘビーデューティーな耐久性・信頼性は緊急用車として最適で、大型消防車と異なり、細い道にも侵入できる機動性から初期消火に重宝されました。このクルマは、1978年(昭和53年)から2005年(平成17年)までの27年間、名古屋のノリタケカンパニーで消防活動に従事した個体です。

1979年 ブルーバード 1800SSS

1979年(昭和54年)11月に登場した6代目ブルーバード(910型系)は、直線基調のシンプル&クリーンなフォルムをもち、名車と呼ばれた510型(3代目)の再来といわれました。発売当初から大きな反響を獲得。歌手の沢田研二さんをイメージキャラクターに迎え、「ザ・スーパースター」、「ブルーバード、お前の時代だ。」というキャッチコピーも大好評で、1982年2月まで小型車クラス販売・27カ月連続トップという驚異的なセールスを記録しました。当初のバリエーションは、4ドアセダンと2ドアハードトップの2車型です。1600/1800/2000の搭載エンジンは、すべて4気筒に統一、「ゼロスクラブ」という発想で、走行安定性を高めたサスペンションも高い評価を獲得しました。この2ドアハードトップ1800SSSは、最高出力105馬力のZ18型を搭載しました

1980年 ローレル 4ドアH/T 2000SGL-E

1977年(昭和52年)1月に発売された3代目ローレル(C230型系)は、豪華なゆとりの充実、静粛さの追求、安定した高品質の維持、省資源への配慮、積極的な安全策という、5つの開発コンセプトを高い次元でバランスさせ生まれました。ボディタイプは端正な4ドアセダン、スポーティーな2ドア・ハードトップ、そして、その双方のよさを融合させた、新設定の4ドア・ハードトップ(ピラーレス)の3タイプとしました。パワーユニットは従来から好評の直列4気筒・1800cc、直列6気筒の2000ccと2800ccの3つをラインナップ。ハイオーナーカーとしての確固たる地位を確立しました。1978年(昭和53年)11月に発売された53年排ガス規制適合モデル以降、型式をC231系に変更しました。このクルマはC231系の生産最後の年となった1980年式で、最高出力130馬力を誇ったL20E型エンジンを搭載しています。

1980年 スカイライン 2000GT

5代目スカイライン(C210系)は、1977年(昭和52年)にデビュー。「日本の風土が生んだ日本の名車」としての自負をキャッチフレーズに込めた「SKYLINE JAPAN」というメッセージとともに、新たなるグランドツーリングの世界を切り開きました。主力モデルである2000GT シリーズは、1979(昭和54)年のマイナーチェンジで、当時としては斬新な角形異形ヘッドライトを採用したフロントマスクを採用しました。「夢のスカGターボ」というCMコピーで多くのファンを沸かせた、ターボエンジン搭載車も加わりました。この2000GTは、お客さまがオーストラリア大陸一周の旅に使用された愛車をご寄贈くださったクルマで、ヘッドランプガードや大型フォグランプなどがノンオリジナル仕様です。

1983年 スカイライン ハードトップ 2000 ターボRS

1981年(昭和56年)にモデルチェンジされた6代目スカイランが、R30型です。CMに登場したレース好きで知られるハリウッドスター、ポールニューマンにちなんで「ニューマンスカイライン」と呼ばれました。1983年2月に、FJ20エンジンにターボを付け、190馬力を誇る、ターボRSが追加されました。ターボの付いたDOHCエンジンで、スカイライン史上最強の(R30型以前)190馬力の出力がありましたが、6気筒エンジンではないことなどから、GT-Rの名前は付けられず、RSと名付けられたと言われています。このクルマはターボRSグレードで、前期の横桟グリルモデルです。

1983年 スカイライン 4バルブ DOHC ターボRS 4ドアセダン

6代目スカイラインとなるR30型は、1981年(昭和56年)にデビューし、2年後の1983年(昭和58年)2月にマイナーチェンジが施され、前後バンパーなどがよりモダンなデザインに変更されています。ハリウッド俳優、ポール・ニューマンをCMキャラクターとして起用したため「ニューマン・スカイライン」の愛称で親しまれました。2000RSターボは、4バルブヘッドを持った自然吸気のFJ20E型にターボチャージャーを組み合わせたFJ20ET型エンジンを搭載したもので、190馬力という高出力によって「史上最強のスカイライン」というキャッチコピーがつけられていました。1983年(昭和58年)8月のマイナーチェンジ後のモデルは、グリルレスボンネットの精悍な意匠から「鉄仮面」の愛称で呼ばれ、高い人気を誇りました。このクルマは、横桟グリルを持つマイナー前モデルのターボRSです。

1983年 ガゼール クーペ ターボRS-X

シルビアの兄弟車としてリリースされたガゼールは、1979年(昭和54年)3月に初代(S110型)がデビュー。1983年(昭和58年)に登場した2代目(S12型)は、 クーペとハッチバックモデルを用意し、直線を基調としたボクシーなデザインで若者の心をつかみました。 搭載エンジンは、直列4気筒1800ccのNAエンジン(CA18S型、CA18E型)のほかに、1800ccターボ(CA18E・T型)、2000ccDOHCターボ(FJ20E・T型)など4機種が用意されていました。基本構造はシルビア同様で、外観上ではフロントグリル、 リヤコンビランプのデザインが差別化されています。世界初となるパワーウーファー、日本初となるチルトアップ機構付電動ガラスサンルーフ、キーレスエントリーも用意するなど、豪華装備を持ったグランドツーリングカー的、スペシャリティカーでした。このクルマは、2000ccDOHCターボエンジンを搭載した最上級車ターボRS-Xグレードです。

1984年 プレーリー JW-G

未だミニバンというカテゴリーが国内に存在せず、多人数乗車が可能なモデルがワンボックスワゴンと認知されていた時代の、1982年(昭和57年)8月に初代プレーリー(M10型)が、未来型セダン・マルチユースセダンとして、時代を先取りして発売されました。駆動方式はFF(フロントエンジン・フロントドライブ)で、センターピラーレスの後席用スライドドアを組み合わせて採用することにより、従来の乗用車では実現できなかった優れた乗降性や多彩なシートアレンジを可能にしている点が大きな特徴です。今日のミニバンブームにつながる草分け的な存在だったのです。JW-Gは8人乗りと5人乗りのセダンと3人乗り+400Kg積と6人乗り+200Kg積エステートの2タイプもありました。エンジンは1500ccのE15Sと1800ccのCA18S型を搭載していました。2列目シートが、2名分回転する回転対座シートというオプション仕様もありました。

1984年 スカイライン セダン 2000ターボインタークーラー RS・X

6代目スカイライン(R30型)は、1981年(昭和56年)にデビューし、1985年まで生産されました。アメリカの名優、ポール・ニューマンを起用したことから「ニューマン・スカイライン」の愛称で呼ばれました。RS系は1983年(昭和58年)2月、ターボエンジンのFJ20ET型を搭載した2000ターボRSがデビュー。さらに同年8月にはマイナーチェンジで、フロントグリルが「鉄仮面」という愛称のグリルに変更、テールランプがスモーク化されました。このRS・Xは、8つの調整機能を持つ8ウェイ電動マルチバケットシート、パワーステアリング、パワーウインド、カセット付きラジオなど、車内装備を充実させた豪華仕様です。

1985年 パルサー エクサ コンバーチブル

パルサーエクサは1982年(昭和57年)から4年間製造された、パルサーのクーペモデルです。リトラクタブルヘッドライトを採用した個性的なエクステリアは、セダンとは一線を画するものでした。このスタイリッシュなクーペボディが人気となり、また1500㏄のコンパクトなスポーティモデルとしてワンメイクレースでも大活躍しました。パルサーエクサコンバーチブルは、1985年(昭和60年)に登場した、日産チェリー系販売会社創立15周年記念特別仕様車で、全国で100台限りの限定販売となりました。5速フロアシフト車をベースにしたオープンモデルで、耐候・耐水性に優れた専用のクロス地を採用したソフトトップには同時に有機ガラス(ポリカーボネート系)を採用、良好な後方視界を確保できるものとして話題となりました。

1987年 スカイライン 2Dスポーツクーペ GTS-X ツインカム24Vターボ

「都市工学です。」というキャッチコピーとともに1985(昭和60)年8月に登場した7代目モデル(R31型)は、DOHCを含む新開発6気筒エンジン「RB型」やセラミック製ターボチャージャー、四輪操舵システム「HICAS」等数々の新機軸を採用しましたが、大幅に拡大されたボディ、初期ラインアップにおける2ドアモデルの欠落、「やわらかい高性能」「ソフト・マシーン」を謳った高級車路線がスカイラインらしくないとの意見もありました。待望の2ドアクーペは、1986(昭和61)年5月に追加され、1989年にはGTS-Rが全日本ツーリングカー選手権(JTC)で年間タイトルを獲得、スカイライン健在をアピールしました。このクルマは、2Dクーペに180馬力DOHC24Vターボエンジンを搭載し専用のアルミホイール装備のGTS-Xグレードです。

1987年 レパード アルティマ

1986年(昭和61年)にモデルチェンジした2代目レパード(F31型)は、R31型スカイラインと共通のプラットフォームをベースに、2ドアハードトップボディのみで登場。エンジンはV型6気筒に統一され、初期にはVG20E型・VG20ET型・VG30DE型が搭載されました。上品な美しさをもつ「プライベートクーペ」がコンセプトでした。F31型は「オーテック・ザガート・ステルビオ」や「ザガート・ガビア」のベース車両や、インフィニティブランド創設初期の「インフィニティM30」としても知られています。このクルマは、VG30DE型エンジン、電子制御スーパーソニックサスペンション装備の最上級車「アルティマ」グレードで、ボディカラーを含め、1986年放映開始の人気刑事ドラマ「あぶない刑事」シリーズの主人公(大下・鷹山)が乗る劇中車と同じ仕様です。

1987年 Be-1 横浜スタジアムリリーフカー

K10型マーチをベースにした「パイクカー」シリーズの第1弾として、1987年(昭和62年)1月に発売されたBe-1。発売を前に、抽選で購入予約者を決定するという、異例の人気ぶりでした。このクルマは、発売と同時に横浜ベイスターズのホームグラウンドである横浜スタジアムで活躍したリリーフカーです。Be-1をベースとしてオープンカーに改造され、丸いヘッドライトの愛らしいフロントマスクはもちろん、赤いボディに日産自動車とBe-1のロゴが入り、助手席を少し高くした仕様が特徴で、約2年間、リリーフ投手を乗せて活躍しました。かつて横浜に在籍し、大リーグでも活躍した「大魔神」こと佐々木主浩投手も、このリリーフカーでマウンドに向かいました。

1987年 MID 4 (II型)

MID4(ミッド・フォー)は、技術の研究・開発の成果を、モーターショーを通じて発表することも目的とした実験車両です。エンジンをミッド部(車体中央)に搭載し、駆動方式を4輪(4WD)としたスーパースポーツカーに由来して、車名をMID4としました。この車両は、1987年(昭和62年)に開催された東京モーターショー出展車で、エンジンは最高出力330馬力のV型6気筒DOHCツインターボ、インタークーラー付、VG30DETT型エンジンを搭載。サスペンションはフロントにダブルウイッシュボーン式、リヤにHICAS(ハイキャス)という操舵機構を採用したマルチリンク式を採用していました。残念ながら、市販には至りませんでしたが、その技術の多くは、1989年(平成元年)に発売された4代目フェアレディZ(Z32型)や、3代目スカイラインGT-R(R32型)などに応用されています。

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1988年 シルビア Q’s

「アートフォース・シルビア」のキャッチコピーとともに1988年(昭和63年)5月に登場した5代目シルビア(S13)は、均整のとれたクーペらしい美しいボディラインが受け入れられ、日産を代表する「スペシャリティカー」として、若者を中心に多くのファンを獲得しました。ほどなく通産省選定グッドデザイン、日本カーオブザイヤーを受賞し、その美しさと人気が証明された形にもなりました。FR(フロントエンジン・リヤドライブ)の駆動方式ならではの走りの楽しさにも人気が集まりました。初期型のエンジンは全車1800ccのCA18型DOHCで、J’sとQ’sが135馬力のNA(自然吸気)、K’sが175馬力のターボエンジンを搭載していました。1991年にはマイナーチェンジで全車2000ccのSR20型DOHCに換装され、それぞれエンジンパワーが強化されています。ちなみに、シルビアとプラットフォームが共通の180SXも1989年(平成元年)に発売され、両車ともに、若者を中心に絶大な人気を集めました。このクルマはCA18DEエンジンを搭載する中間グレードの初期型Q’sです。

1989年 PAO キャンバストップ

Be-1(1987年発売)に続いて登場した日産の「パイクカー」シリーズの第2弾がこのPAO(パオ)です。パイクカーとは、少量生産を前提とした、遊び心のある「尖った(鋭い)」感覚のクルマの総称でした。PAOは1987年の東京モーターショーにコンセプトカーとして出展後、1989年(平成元年)1月に発売されましたが、Be-1とは異なり、3ヶ月間予約を受けた後その全数を生産・納車するというユニークな手法が採用されました。総生産台数は3万台あまりに上ります。車両のベースはマーチ(K10)ですが、内外装ともに「冒険心」をテーマにしたレトロ調デザインで大人気を博しました。車名は中国語の包(パオ)に由来し、モンゴルの遊牧民の「組立式家屋」を意味しています。このクルマはキャンバストップ仕様です。

1989年 S-Cargo

1989年(平成元年)1月に、PAO(パオ)と同時に発売されS-Cargo(エスカルゴ)は、コマーシャルカーとしては斬新な、カタツムリをイメージさせるエクステリアデザインが大きな特徴で、PAO同様に人気を博しました。車名は、フランス語で「カタツムリ」の意味である「エスカルゴ(Escargot)」と、「貨物= カーゴ(Cargo)」のスペイン語読み「カルゴ」を掛け合わせた造語です。カーゴスペースは1230mmの荷室高があり実用的で、ルーフはスタンダードのほか、開放感のあるキャンバストップも選べました。コクピットはテーブルタイプのインパネデザインで、インパネの中央部に大型のスピードメーターを配置。ATのセレクトレバーをセンターコンソール上部にレイアウトする斬新なものでした。「パイクカー」シリーズでは唯一の商用車で、現在でも高い人気を保っています。

1989年 サニー・トラック 標準ボディ デラックス

2代目のサニートラックは、1971年(昭和46年)2月に、セダンであるサニーB110型をベースとして登場しました。トランスミッションは、コラムシフト3速MTとフロアシフト4速MTを設定。搭載エンジンはA12型1200ccエンジンで、標準ボディとロングボディの2種類が設定されました。1978年(昭和53年)にマイナーチェンジを受け(H-B120)、丸型2灯のヘッドライトは変わらず、フロントグリルが樹脂化され意匠変更し、3点式シートベルト等、装備が充実されました。翌1979年には「昭和54年排出ガス規制」に適合、型式がJ-B121と変更されました。1981年(昭和56)には「昭和56年排出ガス規制」に適合、型式がL-B122型に変更されました。1989年には、ヘッドライトが角形に変更され、デュスクブレーキが採用されるなどの変更を受け、型式がR-B122と変更されました。ベースとなったサニーが、1973年にB210型、1977年にB310型、1982年にB11型とモデルチェンジされる一方、サニートラックは、基本構成を変えることなく20年以上にわたり生産され続けたヒット車と言えます。このクルマは丸型ヘッドランプの最後期のモデルです。

1990年 ブルーバード 4ドアセダン 2000SSS アテーサX

1987年、8代目ブルーバード・U12型に設定された「ATTESA(アテーサ)」は、センターデフを電子制御する画期的なフルタイム4WDシステムでした。2000SSS アテーサX はその後期モデルに相当し、前期モデルのCA 型エンジンから、1989(平成元)年のマイナーチェンジから採用のSR 型を搭載しています。歴代ブルーバードの中でも特にスポーツ性が高く、多くの新技術を搭載したU12型には、ターボエンジン+フルタイム4WDの最強グレード「SSSアテーサリミテッド」をベースとしたラリー専用車「SSS-R」が存在し、1988年全日本ラリー選手権のチャンピオンカーにもなっています。このクルマは4WDのSSSアテーサの中で140馬力のSR20DE 型エンジンを搭載し、STC(スーパートーコントロール)、ビスカスLSD(リミテッドスリップデフ)を装備した「アテーサX」 グレードです。

1990年 パルサー 2000 GTI-R

「 「GTI-R」はN14型パルサーのイメージリーダーとしてWRCへの参戦をにらんで開発初期から企画され、1990年8月に満を持してリリースされました。ボンネット上のエンジンバルジと巨大なリアスポイラー、230馬力の2リッターターボエンジンやフルタイム4WDが特徴でした 。ラリーへの参戦を目的に、クロスミッションつきの競技用ベースグレードも存在しました。日産ワークスでの最高位は1992年のスウェディッシュラリーの総合3位。グループN では年間タイトルを獲得する実力を見せますが、主戦場のグループAワークス活動は伸び悩み、92年シーズンを以って撤退を余儀なくされた悲運のマシンです。

1990年 サニー NXクーペ タイプB

NXクーペ(FB13型、輸出名:100NX)は、7代目のサニー(B13型)をベースにクーペタイプのモデルとして開発され、1990年(平成2年)に登場しました。先代のクーペ版だった「RZ-1」の尖鋭的なイメージから一転、ユーモラスなボディをまとったカジュアルクーペといった趣で、歴代サニーシリーズの中でも異色の存在です。北米マーケットの女性ユーザーを中心に企画されたモデルであり、丸みを帯びたかわいらしいエクステリアは、カリフォルニアのNDI(ニッサンデザインインターナショナル)現NDA(ニッサンデザインアメリカ)が手がけたものです。そのため北米で人気だったフェアレディZ(Z32型)風のモチーフも織り込まれており、ルーフを脱着できるTバールーフ仕様も設定されていました。エンジンは1500cc、1600ccのGA型と1800ccのSR型という3タイプが設定され、いずれも4気筒DOHC16バルブユニットです。トランスミッションは、4速ATと5速MTが用意されていました。日本でのセールスは北米には及びませんでしたが、当時放映されたCMは高い関心を呼びました。擬人化された黄色いボディカラーのNXクーペがしなやかに身をくねらせる映像は、モーフィングと呼ばれるコンピューターグラフィックスによる当時としてはとても斬新なものでした。このクルマは、テーマカラーの一つであったイエローパールのタイプBです。

1993年 スカイラインGTS25 4ドアセダン

8代目となるR32型スカイラインは、1989年5月(平成元年)に「超感覚スカイライン」のキャッチコピーとともに登場しました。R32型の最大の話題は16年ぶりのGT-R復活でしたが、他グレードにおいてもスタイリングから足回りなどの機構部分にいたるまで完全に刷新され、若干小さくスポーティになったことで多くのファンの心をつかみました。 ボディ形式は、ピラードハードトップスタイルの4ドアセダンと2ドア・クーペの2つです。1991年(平成3年)にはマイナーチェンジが施され、その際に新開発となる2500ccのRB25型エンジンを搭載するGTS25が追加されました。

1993年 キャラバン 救急車 ハイパーパック

1973年( 昭和48年)発売の初代キャラバン(E20型)、1980年( 昭和55年)発売の2代目(E23型)にも、救急車仕様の設定はありましたが受注生産で、カタログに諸元表は掲載されていませんでした。1986年(昭和61年)発表の3代目(E24型)からは、救急車専用のカタログが作られ、豊富なオプションも設定されました。背景には救命救急士制度の発足に伴い、救急士が救急車内で実施可能な応急処置項目が増加したことがありました。このクルマは、株式会社オリエンタルランドが所有していた車体で、3リッターV型6気筒のVG30Eエンジン(ガソリン)を搭載し、、エクスチェンジストレッチャー(移動ベッド)、エアロソニック型散光式警光灯を装備した「ハイパーパック仕様」です。

1996年 ブルーバード 2.0SSS リミテッド

1996(平成8)年にデビューした10代目ブルーバード(U14型)は、プリメーラ(P11型)と共通のプラットフォームを採用して開発されたモデルです。ハードトップは廃止となり、直線を基調としたセダンボディのみの設定になりました。グレードバリエーションは、スポーティなSSSシリーズと(スーパー・スポーツ・セダン)、フォーマルで快適性を重視したルグランシリーズに大別されました。1800ccと2000ccのガソリンエンジンと2000ccのディーセルエンジンが設定され、トランスミッションは5速MTと4速ATを用意。後に直噴エンジンや無段変速のハイパーCVTなども採用され、ハイパワーと低燃費との両立を図っています。また、運転席&助手席のデュアルSRSエアバッグを標準装備し、デビュー当初はオプション設定だったABSを全グレートに標準装備するなど、安全装備の充実が図られたことはブルーバードのみならず、この時代の特徴といえます。このクルマは、SSSシリーズ中、最もホットな150馬力仕様のエンジンを搭載したリミテッドモデルです。

1996年 セドリック オリジナル

1987(昭和62)年6月登場の7代目セドリック・Y31型は4ドアのハードトップとセダンをラインアップし、従来同様、セダンにタクシー仕様が存在しました。LPG4気筒のNA20P 型、LPG6気筒のRB20P 型、ディーゼルのRD28型の3種類のエンジンを揃えたY31型タクシー仕様車は、1991(平成3)年6月にハードトップ系がY32型にモデルチェンジしても継続生産され、併せて後席頭上空間拡大のためのルーフライン変更、オペラウインドーの廃止で後席居住性が向上しました。このクルマはNA20P 型を搭載した「オリジナル」グレードで、東京都内で実際に稼動していた個体です。

1997年 SKYLINE 4D GTS25t タイプM

9代目スカイラインR33型は、「日本の本流グランドツーリングカー」のキャッチコピーで、全車3ナンバーボディで1993年8月にデビューしました。R32型に比べて全体的に大型化された事により、居住性は大幅に向上しました。サスペンションはR32型と同様マルチリンクながら、前アッパーアームをI型からA型に変更、後ダンパーのストローク増、などの改良が図られていました。エンジンのラインアップは2498ccRB25DE型とターボ付きのRB25DET型、1998ccRB20E型(R33型唯一のSOHCエンジン)の3タイプとなり、4気筒のモデルはなくなりました。このクルマは、最上級車のGTS25tタイプMで、スカイライン開発主管を務められた渡邊衡三氏から寄贈された車両です。

1998年 R390 GT1 ’98年ル・マン公認取得用ロードカー

世界三大耐久レースのひとつ「ル・マン24時間」。1990年代の半ばから後半にかけては、「GT1」と呼ばれる車両規定に準ずるマシンで優勝争いが繰り広げられていました。当時の「GT1」規定は、「公道を走行できる仕様の登録車」が求められたため、各社ともに、本格的な競技用の性能を持つ車両を、市販車(ロードカー)として登録して「ル・マン」への出場権を得ていました。このクルマは、日産が1998年のル・マンの認証のために製作し、実際に英国で登録された「R390GT1」のロードカーです。一般へ販売はされませんでしたが、レースファンの間では、市販化されたら1億円は下らないだろうと噂されたクルマです。

2008年 ティーダ (EVテストカー)

ティーダを利用して、リーフの先行開発のために作成された車両です。リーフ発売前年の2009年に「先進技術説明会」でプレス向けに公開され、前年のキューブEVと同様に試乗会も実施しました。リーフのプラットフォーム検討を目的としているため、ホイールベースはリーフのプラットフォームに合わせて100㎜延長し2700㎜、全長190㎜、全幅約70㎜、トレッドも50~60㎜拡大。このため、結果的に標準のティーダよりどっしりと安定感のあるプロポーションになっていて、独特の魅力をたたえています。リチウムイオンバッテリー搭載による重量増に対応するため、タイヤは20㎜幅広なサイズを装着します。

2011年 リーフ G パトカー仕様

2009(平成21)年、銀座から横浜へ移転した日産自動車本社に併設する「日産グローバル本社ギャラリー」のこけら落としと同時に公開され、翌2010(平成22)年12月に日本・米国で同時発売となった新型電気自動車が「日産リーフ ZE0型」です。2012(平成24)年には、日産として二度目、電気自動車として初の欧州カーオブザイヤーをはじめ、ワールドカーオブザイヤー、日本カーオブザイヤー、RJCニューカーオブザイヤー、日本自動車殿堂(JAHFA)カーオブザイヤーなど多数の賞に輝きました。このリーフパトカー仕様は、映画「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」の劇中で実際に使用された劇用車で、映画の公開を記念して、2013年1月14日~31日に日産グローバル本社ギャラリーで展示されました。また、スリーアミーゴスと本リーフを使用したオリジナルのテレビCM も作られました。ルーフの赤色回転灯とカラーリング以外には、特に改造された部分はありません。

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