ルノー 5ターボ
ルノー メガーヌ
パン柄に塗られたルノー 4
ルノー 4パリジェンヌ
パナール ディナZ1
シトロエン アミ6
シトロエン XM
クレイモデルでしょうか?
プジョー 905
プジョー 908 HDi FAP
ブガッティ・・・でしょうか?
フェラーリ 330P4
フェラーリ 250GTO
フェラーリ 250GT カリフォルニア・スパイダー
ディーノ 246GTB
NART フェラーリ 365GT4BB IMSA
1977年のルマンのIMSAクラスを走り総合16位(クラス5位)に入ったマシン。マルイの伝説的な1/24モデル。
NART フェラーリ 512LM
フェラーリ 512BB
上のレーサーのベースマシン。
フェラーリ 599XXかな?
フェラーリ FXX K
FIAT 131 Gr.5
アウトビアンキ A112アバルト
FIAT ランアバウト
ランボルギーニ
ランボルギーニあたりのクラシック・トラクタでしょうか。
アルファロメオ
超絶再現の 1/12 ポルシェ 956
ポルシェ 917
ポルシェ 935
ポルシェ 911
ポルシェ 914
ポルシェ 918
BMW 2002
BMW 3.5CSL Gr.5
BMW 320i Gr.5 – Roy Lichtenstein
BMW M1 Gr.4
BMW M3 Gr.A
BMW i8
ZAK SPEED
往年のバンダイ 1/16 クラッシックカーシリーズの1906年型メルセデスとみました。
NASCAR
COYOTE
オースチン マイナー
ジャガー XK-E
ジャガー XK120
マクラーレン F1
1963 AC Cobra 289 LeMnas
ルマンに初参戦したコブラ。空力的な対策で後付けされた特徴的な形状のハードトップで有名です。
このコブラはワークス・マシンでしたが、シェルビー・アメリカンからのエントリーではなく、コブラに車体を提供したACカーズにチーム運営が任されていました。(ボディカラーがグリーン系なのは英国チームゆえ)著名な元レーサー、スターリング・モスを監督に据えたワークス・チームは、初参加ながら6台のフェラーリに次ぐ総合7位に食い込むという健闘を見せました。
1964 AC Coupe A98
翌1964年には、ACカーズがコブラ・ロードスターに独自のクーペボディをかぶせ、ルマンを走らせています。(この年、シェルビー・アメリカン・チームもデイトナ・クーペをルマンで走らせています)
クーペが1/24、ロードスタが1/32でしょう。
「コブラ」は、軽量でハンドリングに優れた英国ACカーズの「エース」のエンジンルームに、大排気量のフォード製V8エンジンを押し込むことで生まれた。「キャロル・シェルビー」の発案であるが、同様のユーロ・アメリカン・ハイブリッドカーは、コブラ以前にもゴードン・キーブルなどが存在している。しかし、これほどまでに成功した例はコブラ以前にも以後にもない。 キャロル・シェルビーテキサス出身のキャロル・シェルビー (Carroll Shelby) は、戦時中は軍のテストパイロットを務め、戦後は故郷で養鶏場を営んだりしていた。1952年5月、シェルビーは友人のMG-TCを借りてレースに出る機会を持ち、初レースを初優勝で飾ると、以後順調にレーシング・ドライバーとしての才能を開花させていく。国内スポーツカーレースを席巻した後、レースの本場ヨーロッパに渡りF1に参戦するほか、1959年のルマン24時間レースではアストンマーティンのワークス・ドライバーとして総合優勝を果たしている。 (ドライバー・シートの人物がシェルビー) 1960年のシーズンを終えると、自身の心臓病を理由にレーサー稼業から引退したシェルビーは、西海岸のスポーツカーレースのメッカ、リバーサイドでレーシングスクールの経営に勤しむ中、ヨーロッパ製スポーツカーに匹敵する高性能車をアメリカで製作するという構想を温めていた。(当時のアメリカ製スポーツカーといえば、コルベット位しか存在していなかった) of High Performance Driving AC エース構想を実現する機会は早くもやってきた。 英国のACカーズ製スポーツカー、エースは、ブリストル製2.0L直6エンジンを使用していたが、1961年、ブリストルがその生産を止めることを決定したため、新たなエンジン供給元を探す必要があった。それを耳にしたシェルビーは、自身の理想とするスポーツカー製作の絶好の機会と考え、ACカーズにフォード製エンジンの提供を仲介することを申し出る。 1962-63年 コブラ 260 (Mk.I)話はトントン拍子に進み、エースには英フォード製2.6L直列6気筒が積まれることが決まった。合わせて、シェルビーはACから、エースに米フォードの大排気量V8を積んだ車両製作の約束も取りつける。 1961年、アメリカから英国に送られた260(4.3L)・V8エンジンは、ACカーズの手によって、強化されたエースのフレームに積まれ、完成車となってアメリカに送り返された。これが「コブラ」の第1号試作車である。 当初、ボディはアルミ地のままであった。 第1号試作車はディーン・ ムーンの工場で黄色に塗られた 結局、コブラの生産は、シェルビーの工場(シェルビー・アメリカン)が受け持つことが決まり、エンジンとトランスミッションはフォードから、フレームとボディはACカーズから送られてくると、シェルビー・アメリカンがそれらを組み立てるという体制が出来上がった。 コブラの初レースコブラの記念すべき初レースは1962年10月のリバーサイド3時間だった。まだSCCAの公認要件(生産台数)を満たしていなかっため、XP(eXperimental Production)クラスでの出走であった。 レース自体は、後輪ハブの破損でリタイアに終わったが、GM本社の息のかかった新型コルベット(C2)を突つきまわすことには成功した。(C2コルベットもこのレースがデビュー戦であった)
コブラのレース初優勝 初優勝は、1963年2月にリバーサイドで行われたSCCA選手権であったが、これは260モデルの最初で最後の勝利であった。というのも、コブラのエンジンはまもなく289に積み替えられることになったからだ。 1963-65年 コブラ 289 (Mk.II)フォードが260エンジンのボアを0.5インチ広げた289(4.7L)エンジンを出すと、コブラのエンジンは289に変更され、Mk.II となった。
289コブラのオーナーだった。 コブラのルマン初陣1963年、シェルビーはコブラ Mk.IIでFIAのGTクラスの公認を取得すると、FIAが統括する国際レースに参戦を開始した。メインターゲットはフェラーリが無敵を誇っていたルマン24時間であった。 1963年6月のルマンに初出場したコブラは2台で、1台はACカーズが率いるワークスチームのゼッケン3。キャロル・シェルビーはルマンに精通したACカーズにワークス・チームの運営を任せた。著名な元レーサー、スターリング・モスを監督に据えたチームは、6台のフェラーリに次ぐ総合7位に食い込むという健闘を見せている。 もう1台は、ワークスサポートを受けたディーラー系チームのゼッケン4のマシンであった。(エンジントラブルで117周でリタイヤ) コブラのFIAレース初優勝「ルマン仕様」のコブラは、1963年9月のブリッジハンプトン500㎞で優勝を飾った。これはコブラにとって、FIA統轄下のレースにおける初優勝となった。 以降のコブラ Mk.IIの活躍は枚挙の暇はない。 1965-67年 コブラ 427 (Mk.III)1964年から、より大排気量エンジンを持つコブラの開発が始まった。初期には、289(4.7L)に代わるエンジンとして、390(6.4L)エンジンが選ばれていた。
427のFIA公認取得に困難が待ち構えていた。当初、427を289の正常進化モデルとして認可させるつもりでいたが、FIAはその申請を却下した。289と427は排気量だけではなく、フレームのパイプ径も拡大されており、サスペンション形式も異なっていた。却下は当然と思われた。 正攻法の手段として、427モデルを連続12ヶ月間で100台を生産し、新規に公認を取ることになった。しかし、その生産台数はわずか51台に留まり、公認取得は失敗に終わる。規定の100台を作れなかった理由として、当時のシェルビーがヘンリー・フォードII世肝入りのフォードGTプロジェクト(後述)に忙殺されていたことのほか、コブラ 427の販売が上手く進まず、財政的な問題から製造が中断されたため、とするものがある。
1969年までに996台のコブラが生産されたが、その内訳は、260モデルが75台、289モデルが606台、427(428)モデルが315台となっている。 |
1963-64年 キングコブラGTクラスのコブラに加え、純レーシングマシンの開発にも着手している。GMのバックアップを受けプロトタイプクラスで活躍するシャパラルを直接的なライバルとしたものだった。 コブラ・ロードスターではシャーシにAC製を選んだように、今回もシャーシを社外に求めた。白羽の矢が立ったのは1961年式クーパー・モナコであった。289エンジンをミッドシップに積んだモナコはキング・コブラと命名され、8台が作られた。
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1964-65年 コブラ・デイトナクーペ1963年のコブラ・ロードスターでのルマン参戦で懸案となった空力的な問題を改善するために、ロードスターのシャーシに新たにデザインしたクーペボディを載せることが決定された。当時のFIA規定ではGTカーのボディ形状の変更は自由とされていたたため、全く違うクルマにしか見えないクーペモデルにも、ロードスターの公認が適用されたのであった。 1963年
1964年
デビュー戦の結果は、ピットでの出火で途中リタイアに終わったが、始終レースをリードするなど、ポテンシャルの高さを発揮した。
コブラ 427 スーパークーペ1965年シーズンは、デイトナクーペのベースモデルをコブラ 427に変更し、そのボディ・デザインもさらに空力的に洗練されたものにすることが決定するが、コブラ427の稿で書いた通り、427はFIAの公認取得に失敗したため、必然的にスーパークーペの計画も流れてしまった。 すでに半完成状態にあったスーパークーペは、紆余曲折の末、とあるコレクターの下で見事完成まで漕ぎ着けられ、1981年のイベントで初公開されている。
レース黎明期の日本に渡ったデイトナクーペ1965年のレース・シーズンが終わると、6台のデイトナはすべて売却された。このうちの1台(VIN: CSX2300)が日本に流れ、黎明期の日本の重要なレースに出場している。 CSX2300は、1966年の第3回日本グランプリに突如デビューした。ドライバー兼オーナーの酒井正選手による出走で、エンジン・トラブル(ガス欠)で46周リタイヤで終わっている。
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FORD GTフォードによるルマン攻勢はアメ車黄金期の60年代に行われた。フォードのルマンへの興味は、当初はマーケティング活動の一環に過ぎなかった。しかし、それがフォードの君主「ヘンリー・フォードII世」とフェラーリの独裁者「エンゾ・フェラーリ」の個人的な確執までに昇華されたとき、自動車レース史・・・否、自動車史においてすら語り継がれる史実となった。 ライバル・フェラーリ攻略のために、ヘンリー・フォードII世が天文学的な予算を投じて準備させたプロトタイプ・レーシングカー、「フォードGT」はフォードの仕事であったが、キャロル・シェルビーは、最前線でワークスチームの指揮を取り、見事偉業を成し遂げる一端を担った。「コブラを作った男」は、さらに自らの名声に磨きをかけることになった。 1964年
1965年 初戦はデイトナ2,000kmであった。参戦した2台とも幸先よく1位と3位に入賞した。2位と4位はコブラ・デイトナクーペで、シェルビーにとって完璧な勝利となったが、フォードGTにとっては初勝利であった。なんとフォードGTが初めて完走したレースでもあった。 肝心のル・マンでは、昨年同様、6台全車リタイアに終わった。この年もフェラーリは1-2-3フィニッシュであったが、1位と2位はプライベーターの年落ちマシン 250LM、3位はGTクラスの275GTBであった。フェラーリ・ワークスの最新プロトタイプレーサー 330P2 の3台は全滅したことはフォードにとってせめてもの救いといえた。
シェルビーはフォードの連中が、1950年代からフォードと関係があるホルマン・チームを自分よりも優遇するのではないかと疑心暗鬼だったということだ。シェルビーといえども、フォードII世と直接話をできる立場ではなかったが、ジョン・ホルマンはそうではなかったからだ。 1966年 今年が上手くいかなければ、来年はないことはフォード関係者の誰もが思い知っていたが、3度目の正直とはよく言ったもので、この年から全てがうまく回り始めた。 この年より2,000kmから24時間に伸ばされた初戦デイトナは、ルマンの予行練習にうってつけとなった。フォードGTは見事、1-2-3フィニッシュを果たした。なお、シェルビーチームは1位(#98)、2位(#97)、4位(#96)を、ホルマン・チームは3位(#95)を得ている。 必勝を期すルマンには、13台もの大量エントリーがなされた。ワークス・チームはシェルビー、ホルマン=ムーディ、英国のアラン・マンの3本立てで、各3台、3台、2台の計8台。すべて427エンジンのMkII。プライベーターからは計5台、すべて289エンジンでの参戦であった。
1967年 初戦のデイトナ24時間では前年のルマンでの意趣返しが行われた。フェラーリが見事な編隊で1-2-3フィニッシュを飾ったのだ。それも優勝した#23号車のドライバーの一人は、昨年フォードでルマン優勝を果たしたクリス・エイモンであった。 ちなみに昨年のルマンでフォードが行った、3台が一丸になってゴールするという「演出」がレース関係者に与えた影響はよっぽどのものであったのだろう。1967年のデイトナでフェラーリが行ったことはすでに書いたが、翌1968年のデイトナではポルシェ907が3台並んでゴールした。 同じ1968年のデイトナでは、アルファロメオも5、6、7位であるが、並んでゴールしている。やってみたかったのだろう(笑) 様々なプレッシャーを跳ね除け、シェルビー・アメリカンは、マーク4となったフォードGTを再びルマン総合優勝へと導いた。 優勝したダン・ガーニー、A.J.フォイト組はルマン初のオールアメリカンによる勝利であった。ダンは表彰台でシャンパンをぶちまけたが、これが世界で初めて行われたシャンパンシャワーであった。
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1965-69年 シェルビー・マスタング1964年、フォードは自動車史におけるアイコンとなるマスタングの販売を開始した。マスタングを仕掛けたフォード副社長リー・アイアコッカは、販促のためにマスタングを使って国内スポーツカーレースに参戦することをキャロル・シェルビーに依頼した。当初は、ラバから競走馬は作れない、とシェルビーは乗り気ではなかったというが、参戦初年の1965年に早くも SCCA Bプロダクションクラス優勝を勝ち取り、見事その大役を果たしている。 1966-69年 SCCA トランザムシリーズ1966年、SCCA (Sports Car Club of America)は、車両規定をFIAのグループ2ツーリングカーの準拠させ、国際性持たせた4座セダンレースに国内チャンピオンシップを掛けることを公表した。これが現在まで続くトランザム・シリーズの始まりである。 シェルビー・アメリカンのマスタングは1966年、1967年のトランザム・シリーズの2リッター超のタイトルを獲得した。 1966年 1967年 1968年 1969年 ちなみにペンスキーとシボレーの関係もこの年が最後となった。ペンスキーはAMCに引き抜かれたからである。シボレーはシャパラルを新たなパートナーに選択したのだった。 メーカーの販売成績に直結したトランザム・シリーズは、この後、ますます過熱していき、70年代に入って最高潮を迎える。 |
1965 GT350/GT350Rシェルビーの工場でセットアップされたホモロゲーション用マスタングが市販されることになった。 シェルビーは、この車両を手に入れる人は純粋にレースに使うと想定したのであろう、エンジン、トランスミッション、足回りの交換は当然のこととして、レースに不要な遮音材、制振材、ヒーター、パワーステアリングといった快適性に関わるパーツの一切、さらにはリアシートまでもが取り除かれていた。
GT350を求める人は、シェルビーが想定していたほどレース志向は強くないことが明らかになった。1966年モデルでは、レーシーなパーツはオプション化され、逆にオートマティックトランスミッションやエアコン、ラジオといった快適装備もオプションに加えられた。折り畳み式リアシートが装備され、ボディカラーも選べるようになっている。
1967 GT350 / GT500 ベース車両のマスタングがマイナーチェンジを受けたため、GT350もマイナーチェンジされた。この年から、428エンジンを積んだGT500が設定された。GT350で1,190台、GT500で2,051台の計3,241台が売られた。(シェルビーの工場では1日平均10台のGT350/500が造られていたことになる)
「コブラ」の商標は、シェルビー・アメリカンからフォードに売却された。その売価はたった$1であった。GT350/500はフォードのカタログモデルとなり、フォードの生産ラインで製造されるようになった。 GT350/500は市場の要求から、硬派なスポーツカーから派手な見た目のスポーティカーへと変貌していく過程にあったが、ついにマスタングのグレードを表す記号に過ぎなくなった。
1969-70 GT350 / GT5001969年、マスタングの高性能モデル、マッハ1とトランザムシリーズ用ホモロゲーションモデルのBOSSがデビューすると、GT350/500はフロントノーズのデザインが変えられたマッハ1になり下がった。GT350/500は世代交代の時期に来ていた。この年、GT350が約1,300台、GT500が約1,900台造られたものの、600~800台が売れ残ったため、年を越して1970年モデルとして売られている。 1969年10月、トランザムシリーズの最終戦を終えると、キャロル・シェルビーはレース界からの引退を表明する。GT350/500もこのモデルを最後にカタログ落ちとなった。 |
1968年 トヨタ2000GT最後にシェルビーと日本のメーカーとの意外な関係で稿を締めたいと思う。 トヨタは2000GTの海外展開にあたり、USのスポーツカーレースに参戦することを模索していた。当初、日野を傘下に置いたことで、日野のレース活動を行っていたピート・ブロックのBRE (Brock Racing Enterprises) と関係ができ、BREに業務を委託する方向で話が進んでいた。 そこにキャロル・シェルビーが割って入ってきた。フォードとの関係が希薄になりつつある中、新たに日本のメーカーとでも関係を築いておきたいと考えたのだろう。当時の日本車は世界水準からまだまだといったところにあったが、トヨタはGM、フォードに続く自動車生産台数・世界第3位を誇るまでに急成長した有望株だったのである。 トヨタにしてみれば、世界的に著名なシェルビーからお声がかかったとなれば、BREから鞍替えしたくなるのも無理はない。さらにシェルビーが、BREのピート・ブロックはかつての部下であり、約束が反故となる話は私の方でつけておく、と言えばなおさらである。 3台の2000GTがシェルビー・アメリカンに送られ、1968年のSCCAのCプロダクションクラスに参戦すべく改変が行われた。ポルシェ911、トライアンフTR250など競合ひしめく中、2000GTはクラス4位でシーズンを終えるが、トヨタとシェルビーの関係は、その1年のみで終了している。
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シェルビー:シャパラル:チーター・モデル年表 |