E藤氏のレポート、つづき。
1976 タイレルP34
実車展示その1、タミヤ所有の個体。6輪車は永遠のアイドルです。
16式機動戦闘車
実車展示その2。16式とは2016年の意。戦車並みの火力と最高時速100km/hを持ち合わせた車両。(それでも最新の10式戦車では最高時速70km/hというからたいしたもの。ちなみに10式の後進最高速度も70km/hだそうです)
Aircrafts
Ships
Tanks and guns
Deformed things
Cars
Locomotives
American Graffiti
チーターですね。はるか昔、COXでスロットカー上がりの1/24がありました。これは、どこかのレジン・キットでしょうか?
ここで、USではカルトな人気を誇るものの、日本では無名の「チーター」のうんちくをカマさせて頂きます。
USにおけるスポーツカーレースの始まりは、第2次大戦後、ヨーロッパから戻ってきた米兵たちが、USに無かったスポーツカーを持ち帰って来たことからと言われている。GMはいち早くそのムーブメントに反応し、コルベット(1954-)を市場に出した。コルベットの成功は誰もが知るところである。 # 戦後最初のスポーツカーレースは、意外にも東海岸で行われた。(ニューヨーク州のワトキンズ・グレン、1948年) Bill Thomas Race Cars1921年生まれのビル・トーマスは、50年代のスポーツカーレース黎明期に、初代コルベットのチューニングで名を挙げると、1960年に自らのファクトリー、「Bill Thomas Race Cars (=BTRC)」を立ち上げ、GM系チューナーとして名声を博していく。 チーター誕生1963年デビューの2代目コルベットは、アメ車初の独立懸架サスペンションを持つGMの自信作で、初代に続きサーキットでも我が世の春を謳歌するはずだったが、間もなくフォードの肝いりで登場したコブラが、GMの目論見をひっくり返してしまう。
最重量物となるV8エンジンは理想的位置としてシャーシ中央に置かれた。
Jerry Titus によるテスト第1号車は、1963年、リバーサイド・インターナショナル・レースウエイで Sports Car Graphic (SCG)誌によって、はじめて公開でテストされた。テストドライバーは、SCG誌のテクニカル・エディタ兼レーサーの、ジェリー・タイタス(Jerry Titus)であった。
チーターの実像1トンを超えるコブラに対し770kgという軽量な車体と、360馬力を超える327cui.(5.3L) V8の組み合わせで、チーターはまっすぐ走らせると、とてつもなく速かった。しかし、ハンドリングに難点があった。行き当たりばったりで設計されたシャーシの剛性が、エンジンパワーに対しあまりに低かったためだ。コーナリング荷重に対し、クロモリ鋼管で組まれたセミスペース・シャーシは容易にたわみ、サスぺション・アームはあらぬ方向に動いてしまっていたのだ。(直線番長のチーターは、ドラッグレーサーとして延命され、その世界では成功している)
なぜチーターと命名されたのか?上のSCG誌のテストレポートの段階では、まだ「トーマス・シェヴGTクーペ」(「シェヴ」は「シヴォレー」の意)となっている。まもなく、チーターと命名されたわけだが、その理由を書いた記事は見かけない・・・あくまで私見だが、チーターのロングノーズ&ショートデッキのプロポーションと鍋のようなキャビン形状の組み合わせが、当時、北米で大ヒットを飛ばしていたジャガーEタイプのそれと似ていることから、ジャガーと同じネコ科の大型動物であるチーターの名称が、(パロディ精神で)選ばれたとみるが、いかがだろうか?(GM内で「cheater」((コブラを)出し抜くモノの意か?)と呼ばれていたことから転じて、という説もあり) チーターの原型チーターの設計者であるドン・エドモンズは、シャーシ剛性の低さを指摘されると、こう弁明している。チーターは当初、GMからショーカー製作といった新しい仕事を引っ張ってくるためのサンプル程度のものを想定して造られていたのだが、製作途中で突然、レーシングカーに舵取りされたためだという。にわかに信じ難い話ではある・・・というのもチーターの原型とされるレーサーが存在するからだ。 ドンがBTRCで仕事を始める前に、ビル・ストロップ(Bill Stroppe)のために製作した車両がそれである。マセラティのバードケージ(ティーポ61)に触発され製作したことと、ビル・ストロップの渾名が「The Bear」だったこととを合わせて、「ベアケージ」(クマの檻)と名付けられた。 ティーポ61に似たボディは、製作当初は屋根のないロードスターで、ハードトップは後年、ソルトレイクでのスピードトライアルに挑戦する際に付け加えられたもの。
プロジェクトの終焉1964年初頭にFIAが統括するGTクラスのレギュレーションに変更が入り、1965年シーズンから要求される最低生産台数が、連続した12か月に 100 台以上から 1,000 台以上に引き上げられた。BTRCにとって、100台の生産でもGMのバックアップが必要だったが、1,000台は、世界最大の自動車メーカーであるGMすら躊躇する数字であった。なにより、GMはチーターをお気に召さなかった。GMのバックアップの約束は白紙に戻された。 FIAのGTクラス公認の道を閉ざされたチーターは、プロトタイプクラスを走るという選択は残されていたが、そのクラスではFRレイアウトはすでに時代遅れになっていた。コブラがヨーロッパに殴り込みをかけ覇権を握った一方、チーターの主戦場は USRRC (United States Road Racing Championship)、SCCA (Sports Car Club of America) といった国内レースとなった。(とはいえ、チーターの実力に相応しい舞台であった) さらに追い打ちをかけるトラブルがBTRCに起きた・・・1965年、BTRCのファクトリーが火事に見舞われたのだ。チーターを製造するためのジグが焼失してしまった。これがとどめとなって、チーターのプロジェクトは完全に終了した。 16台のチーターチーターは、完成車11台(とベアシャーシ5基)が作られたにすぎなかった。この特徴的なクルマの消息は、ほとんどすべて把握されている。ここに代表的な車両を紹介したい。 第1号車: GMテスト車 第2号車: BTRCのワークスマシン 初レースは1963年10月のリバーサイド200マイルが予定されていたが、レース数日前の練習走行中にクラッシュしてしまい、エントリのみで終わった。(この事故でアルミボディはFRPボディに換装された) 結局、初レースは1964年2月のリバーサイドとなった。ジェリー・タイタスのドライブで出走するも、1周目でクラッシュしリタイヤと相成った。以後、1964年シーズンはジェリー・タイタスがドライバーを務めた。
第3号車: Cro-Sal スペシャル ガルウイングドアがテープで固定されているが、これは高速時に勝手にドアが開いてしまう(笑)からである。
第5号車: チーターを3台購入したAlan Green・その1 5号車が最初の一台だが、黄色のバーダル・カラーに塗られ、ジェリー・グラント(Jerry Grant)のドライブでレースに供された。残念ながら、1964年2月のデイトナでの初レースでクラッシュ、全損となってしまう。(そのため現在、画像がほとんど残っておらず、レア・カーとされている) 第6号車: チーターを3台購入したAlan Green・その2
第7号車: チーターを3台購入したAlan Green・その3
427 スーパー・チーター・プロジェクトビルはチーターの改良版、スーパー・チーターの製作を、1965年シーズンに間に合わせるべく開始している。
ボディデザインも空力的に改善される予定であった。(リアのデザインは、自身がそのエンジン・チューニングに携わった1962年のGMのコンセプトモデル、コルベア・モンツア GTの要素が盛り込まれたと言われている)
実は、これと全く同じ計画が、宿敵シェルビー・アメリカンでも進められていた。1964年のルマンをコブラ・デイトナクーペでGTクラス優勝を果たしたシェルビーだが、残念ながらGTクラスのシリーズチャンピオンは僅差でフェラーリに奪われてしまった。 翌1965年のルマン総合優勝のみならずシリーズチャンピオンをも狙うべく、コブラ・デイトナクーペの磨きを掛ける・・・ボディを拡大して、289エンジンの代わりに427エンジンを積む、さらに空力的にも洗練させる、という目論見であった。 この計画は、シェルビーが急遽フォードに請われ、GT40 開発の中心となることに決まり、流れているが、これがビルを刺激したのだろうか? なお、GMはシャパラルを通して、1966年および1967年のルマンのプロトタイプクラスに挑戦している。 スーパー・チーターは公道市販車としても期待されていたようだ。コブラ・ロードスターが、フォードのショウルームに並べられたように、スーパー・チーターがシヴォレー・ディーラーに並ぶことを夢想していたらしい。 G.T.R. ビル・トーマスがチーターの生産を停止した後、チーターのボディを製作していた2社のうちの1社、Fibreglass Trends 社がその事業を引き継いだ。FT社のチーターは G.T.R. と呼ばれ、1965年から少なくとも1989年までは生産が継続されていた。G.T.R.は、主にドラッグレーサーとして使用され、それなりの成功を収めている。(1965年のA.H.R.A.クラスチャンピオンとなった)
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